人気があって、色気があれば、それはちやほやされ易い。でもそれって一時の事じゃぁないですか?残るものって何かしらね?
p2の第二パラグラフ。
人を大事にすることについて学ぶもモノなどないと言う態度の背後にある、第2の前提は、人を大事にするという課題は、「相手」の課題であって、「自分の能力」の問題ではない、という仮定がありますね。「人を大事にすること」なんか簡単だと思いがちだけれども、大事にしたい相手を見つけたり、大事にしてくれる相手を見つけるのは難しいでしょ。人を大事にすることについて学ぶべきものなどない、という態度には、いくつも理由がありますけれども、その理由は現代社会が発展していることに根差すものですね。その理由の一つは、二十世紀には、「大事にしたいもの」の選択において大きな変化があった、ということです。ヴィクトリア時代は、伝統文化を大事にする社会と同様に、人を大事にすることは、結果として結婚に繋がるような自発的な個人の経験ではないのが普通でした。逆に、結婚は、慣習による契約だったり、個々の家族がする契約だったり、結婚業者があっせんする契約でした。あるいは、そう言った仲介の助けなしでの契約でした。
近世まで、結婚は自由恋愛を前提とするものではなくて、慣習などによる契約だったわけです。ですらか、自発的に自分で好きな人を選ぶわけじゃあなかった。現代になると、自由恋愛は可能だけれども、大事にしたい人はこの人、と決めかねてんですかね。
自分で選んでいるようで、たくさんの情報に翻弄されて、主体的に選べないことが多いんでしょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます