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(Google検索では、「発達トラウマ障害」は検索しにくい操作【おそくら、内閣府情報調査室の仕業、です】が施されています)
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Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 ,第2章第3節「毎日礼拝」の件が終了。
第4節「毎日礼拝の復権」も、終了。
第Ⅲ部の初めから。
今朝は,p.126の,最後の、第2パラグラフ,11行目から。
中垣に関する様々な見通し(壁にかかったいくつかの風景)
私がこの本の初めに,1人の子どもの積み木遊び(子どもが人と歓びを創造発達させる歓びセラピー)と,いくつかの遊び理論と,を取り上げて,最初に出した本(訳注:『子どもと仲間たち』)で、境がハッキリしている「小さな自分の世界」に人が投影する唯一のモデルは,遊びの舞台の遊びだと申し上げた結論を,少しも変える必要がありません、という結論に達したのであります。その「小さな自分の世界」は,自分をグルっと囲う目には見えない壁にかかる数々の心のスクリーンを配置することです。この心のスクリーンこそ,神意を目に見える物語にしてくれるものです。子どもの遊びの中に,私ども夫婦は,聖書の神様が創造する創造の夢幻の設計図を見付けました。その創造の夢幻の設計図は,のちのち,結界,「対等な関係」(目に見える形に広げるのは,大切なことを一層ハッキリと理解するするために、広げてみる訳です)、舞台,あるいは,青写真を使って,進化にまつわる,歴史にまつわる,拵えることにまつわる,体面にまつわる発達を,イメージして,そのイメージを出来事にするキリストに首根っこを掴まれるためです。しかし,さらにご指摘したいのは,あの恐怖、不安,恐れです。あの恐怖、不安,恐れは,人間の大小にかかわらず,須らく人間をてんてこ舞いにします。人間が誰でもてんてこ舞いになるのは,待ちに待った聖書の神様からの息吹が静かに囁いてくれたおかけで心からの自由にされた、その自由が,目に見える敵と目には見えない敵が大小の人間ひとりびとりに課してくる,「それはダメでしょ」と心の中で叫ぶ禁止の号令,自分の周りをグルっと巡っている,眼には見えない中垣,押し付けられた生き方,のため息の根を止められた,と気付く時でしょう。いのちの結界で私がお示しできる心は,人って敵が誰も居ないと,敵をでっち上げることが多いのは,自分が新しい人になるための心からの自由を頂く結界を作るためである(訳注:のであって、敵をやっつけるためじゃぁない)、という事です。
1つの視座だけが本当の自分を育てることは,日々のこまごました些事を礼拝にすることと(訳注:必ず)音色が響き合っています。日々のこまごました些事を礼拝にすることは、人とする一番些細なやり取りから,人を育むことを礼拝で一緒に行うことまで,いろいろですが,全てに言えることは,「これこそ,私等の物の見方,物の言い方,物のやり方です、それは人間らしく心から優しく生きる生き方です」という事です。創造を生み出す様々なイメージは,聖書の神様のいのちが一巡する結界の中にあります。その神様の結界が真実に実現するのは,とっても些細な並びなのに,聖書の神様の創造の秩序と聖書の神様のみ心にピッタリに見事に並んだ並びの中でなんです。
このような聖書の神様が創造する夢幻の設計図がいまここに確かにありますねとハッキリと申し上げたいフィールドは,たくさんあります。手始めに申し上げれば,私に一番身近なのは,趣味と天職,すなわち,アートと魂を自由にするサイコセラピーです。聖書の神様が創造する夢幻の設計図が様々なフィールドに確かにありますから,聖書の神様を信頼する信頼に立ち返れば,試練の中でも思い通りに聖書の神様が創造する夢幻の設計図が手に入る体験をお分かちすることから,話を始めてもいいでしょう。最近,ヘルムート・コール(訳注:西ドイツ首相)が,サンフランシスコで「観点に関して」と題する文書を発表しました。この中でコール首相は,ルネッサンス絵画の公式見解と,ルネッサンスが広めたキリスト教信仰を結び付けましたし,また,見通しと信仰を,希望のヴィジョンを求めるニーズと結びつけました。
「実感のあるヴィジョンが,一貫性した視点の点で,思想を形成するモデルになります。実感のあるヴィジョンこそ,人を根底から支える根源的な信頼を確かしてくれます。実感のあるヴィジョンこそ,1つの見方に従って一徹に生きられるかどうかを図る最深の要になります。究極的には,実感のあるヴィジョンは,イメージが出来事になる真実が理想にも判断基準にもなります。」
デ・ヤング美術館で私ども夫婦は、ファン・ボォルジッヒが、17世紀初期のブランドル領主に献じた「新しいスピリットであるキリストがあなたの中に生まれます(受胎告知)」の絵を見ました。この絵は,その匿名性とその統一感の中に,人間が抱く陽気で楽しい見通しの様々な元を一つにまとめている様に思われました。陽気で楽しい見通しの様々な元とは,陽気で楽しい見通しは,聖書の神様から見守られている中から本当の自分=大我が創造される源である,ということ から,陽気で楽しい見通しには,いまここを生きる見通しに最高の意味をもたらす,ということ まで,です。「新しいスピリットであるキリストがあなたの中に生まれます(受胎告知)」は,もちろん,〈聖書の神様が下さる毎日の見通し〉,すなわち,身体に宿った実感のあるヴィジョンの子どもは,キリストが約束する大事な割り当てを人間の中でいつでも最高にしておいてくださる御子キリストになる,という最善の見通しです。キリストが約束する大事な割り当てとは〈神の国=聖書の神様のいのちが一巡する結界のいのちの家(最新の【聖書協会共同訳】の詩篇第23篇5節では「主の家」となっています。キリストの「恵みと慈しみ」のお陰で,いのちの家を生活の中で毎日建てることが出来る,というのが,この詩篇23篇の意味することでしょう)〉です。〈聖母マリア〉がいますでしょ。いのちの家では,〈聖母マリア〉も集められています。聖書の神様のみ使いがいまここに居て,煌めきを放っているのに気付いて,開いていた本を下において,聖母マリアが夢中になっていたページ(ページも,枠づけられた視野ですね)は「輝きを照り返して」いる事が見て分かりますね。この場面は,光の前では跪く者という聖書の神様の結界を示しています。光の前では跪く者とは,古い約束が定めた預言者では,モーセ,になるんでしょうか? 光の前では跪く者とは,新しい約束が定めた預言者はキリストになる様に。 しかし,聖〈母マリア〉は,凛とした煌めきを帯びた聖書の神様のみ使いが現れて,ほとんど見劣りします。凛とした煌めきを帯びた聖書の神様のみ使いは「身体にはキリストがおられます,キリストは『新しい人』の守り手です」というみ言葉を伝えます。それに,聖書の神様のいのちが一巡する結界の中では,「聖霊」,すなわち,「そうしなさい」と内的に促す者が,心に沁み入る輝く光に乗って下ってくるのが見えます。
この自分が自由になる結界は,身体の中のキリストのおかげで陽気で楽しい見通しの中で「新しい私」になる全てが生じる前にある土台ですが,背後には,2つの間を見上げた窓があります。聖母マリアの後ろの窓は,隠れ家のヴェールを剥がします。もう1つの窓は,私どもの眼をさらに2つのピッタリな枠に繋がります。1つの窓は,街に面して,街を見上げていますし,もう1つの窓は,丸い羽目板のある3連祭壇画が開いているのを見上げています。窓はそれぞれが輝きの中にあります。丸い羽目板のある3連祭壇画は、もう1つの窓(唯一の「風でもある聖書の神様の眼」)と見まがうほどでしょう。この自分が自由になる結界が示しているのは,人は光るスピリットの前で跪くものだということですし,私どもが心に打ち込まてるのは,光に顔を向けることは,この世で「志に生きる」,ということです。この世では,闇夜の闇はいつでも,夜明けのキリストの光に敗れて,晴れ晴れとなります。
子どもが心からの歓びを大人と共に創造する遊びが,心響かせ合うことが出来るという見通しと共に,明らかにしていることが,人間が互いに大切にし合うことこそは,人間が育つ場で一番大事にされるべきで,除け者にされたり粗末にされたりされないこと,また,いつも新鮮である中で味わうべきで,取るに足らないと粗末にされないことだと指摘する場合,私ども夫婦が繰り返し心の刻まなくてはならないことは,聖母マリアのお腹は,その存在自体,《私》が生かされる時,宇宙の中心にある,ということです。それは,聖書の神様のいのちが一巡する結界では,身ごもった女性と新しく生まれる子どもひとりびとりの中心にも,聖母マリアのお腹があるみたいに。宇宙の中心にあるのは,新しい眼で,子どもが育つ場に打ち込まれています。宇宙の中心にあるのは,また,新しい顔で,繰り返しそこにいると認めて繰り返し大切にすることになります。宇宙の中心にあるのは,また,新しい名前で,新しい《私》(訳注:キリスト・本当の自分・大我・真如)の印になります。新しい《私》は,唯一の聖書の神様の尽きることのない好意に感じて驚きと感激で胸がいっぱいになった新しい人キリストで,(訳注:ハンナ・アーレントが言うように)「人間の条件」によって,裏切られることが1つもありません。
しかし,この小さな絵が描き出しているのは,唯一の聖書の神様が約束している創造・発達の初めであるという,真面な人が創造・発達する見通しを共に歩むためには,また,「聖書の神様の創造・発達にピッタリな」歓びを共に創造・発達させる遊びの中に認められる,人が心響かせ合う存在に育つ場全てを描くためには,「キリストがあなたの身体に中に生まれます」という絵のまわりにある,真面な人が共に創造・発達するそのほかの絵も含めなくちゃいけませんね。どんな仕事場の壁にある絵でも、どんな強化の壁にある絵でも,どんな美術館の壁にある絵でも。1枚の見通しがハッキリと示しているのは,子ども,すなわち,「大人になった人の子=キリスト」でして,片手を挙げて,確信に満ちた血の犠牲の振舞いの中で,最後の叫びを叫んで,両手の爪を十字架に立てて,ゴルゴダの恐ろしい夜の中にいます。「神の子 キリスト」が「天」で救われ選ばれた者たちを慈しみ深く出迎える一方で,「地獄」に落とされた者たちを厳めしく打ち捨てている,のを示す絵もあるのかもしれません。また,聖書の神様に向かい合う時に頂く輝きのある王様たちの1人が,十字架に磔にされた大工の倅を歴史を通じて繰り返し示す絵もあります。さらには,「錦の御旗」を立てた正義の戦いの場が,私どもの目の前に広がっている絵もあります。この「錦の御旗」を立てた正義の戦いの場は,傷つき,死の苦悩の中で積みあがった異教徒達の屍でいっぱいです。
キリストの恵みのお陰で,様々な結界で1つになったたくさんの者物全体を1つ(シャローム平和,人類皆兄弟,山川草木悉仏性)にしていただくことだけが,過去の特別な発達創造と,預言者が予言する未来とを結び付けて,「何があっても大丈夫」という晴れ晴れした見通しを貰たらしてくれます。「何があっても大丈夫」という晴れ晴れした見通しには,あらゆる生死(しょうじ)に,聖書の神様が仕込んだご計画と,聖書の神様が隠した生かされている意味とがありますね。それに,「何があっても大丈夫」という晴れ晴れした見通しに確信が出来ますと,新しい私が発達創造されることは,いつも共に新しくされて新たな一心同体を身に着けるだけではなく,《私》が聖書の神様の《私》を通じて、人様の《私》と一心同体に成る、梵我一如、シャローム平和を信頼する源の見通しを拵える振舞い、礼拝,司祭役,諍いのルールも身に着けます。《私》が聖書の神様の《私》を通じて、人様の《私》と一心同体に成る、梵我一如、万物一体,シャローム平和を信頼する人は,生きている実感がハッキリした人です。生きている実感がハッキリすることによって、はじめて人は,幼い時期の呪いの運命(訳注:発達トラウマ体験)に打ち勝ったと感じることが出来ます。幼い時期の呪いの運命(訳注:発達トラウマ障害)の人って,生きている実感が全くない運命でしょ? また,《私》が聖書の神様の《私》を通じて、人様の《私》と一心同体に成る、梵我一如、万物一体,シャローム平和を信頼する人は,最後の審判の厳しいお裁きに正面から向き合うこともできます。そこでは選ばれた少数精鋭しか救われない,と言われます。たほう,少数精鋭以外,すなわち,選ばれなかった者たちは,滅びます。人間を上下2つに分かるウソを信じ込みますと,私どもは人事と「いくら貰えるか」の金で取引するようになります。そこで見逃さないで居ましょう、と申し上げたいのが,時空を貫く一番の見通しは,自分が安んじているところ(教会みたいに)に根っこがある、というわけです。自分が安んじると,生きていくうえで必要不可欠なことを政治に任せ,1人で居て,本当の自分を生かせないことに頼って生きるようになります。と申しますのも,自分の肉は必ず死ぬと真に悟っているか否かに関わらず,私どもの魂が一番恐れるのは,ずっと一人ぼっちで、ずっと自分から人に関われないことなんですからね。聖書の神様と一心同体に成り損ねた空恐ろしさにピッタリな素晴らしい言葉を、「キリストが貴方の身体に宿った」の絵が記されたのと同じ世紀に絞首刑にあった人の墓標に見つけました。すなわち,「私の青春はおわった 私はまだ若いのに 私は世の中を見た まだ私は世に認められてないのに」です。
あの心静かな「キリストが貴方の身体に宿った」という絵は,その中に光と聖霊が一緒になり,その顔と言葉が一緒になって,何もかもが闇の中にあり魂が死んでいて、面目もたたず生きている意味もない,という,何度も繰り返されるすさまじい空恐ろしさから,なるほどホントだねという腑に落ちる感じを引き出しています。しかし,忘れないで居ましょうね。力強くなるほどホントだねと腑に落ちてもらうために,この絵描きは,形と共に歓んで生きる生き方にピッタリな志に身を任せているに違いない、ということを。歓んで生きる生き方にピッタリな志があればこそ、志のある人の作品は,見る者の最深欲求に響きますし,聖書の神様が示す全く不思議な真理のお陰で聖書の神様を信頼する信頼を不動にします。
生きているとは歓んで生きることだ,ということを肝に銘じることです。歓んで生きることは、互いに全く異質に見えることですが、他の「イキイキ晴れ晴れしていること」,すなわち,自分を空っぽにすることでキリストのスピリットに生きていただく(生きるはキリスト になる)時に,実現します。いのちを吹き込まれたイキイキ晴れ晴れした絵が,夢や劇場の額縁には共通する形を分け合っている、と申し上げるのは難しいのですが,しかしながら,劇場も理論も、言葉の上ばかりではなく,あの経験も根っこが共通しているんです。この劇場シアターと理論セオリーという2つの言葉が共通してい事は、「心魅せられることと信頼することに目覚めた 眼に見える空洞と,初めは眼には見えなかったのにハッキリと見えるようになる空洞がありますよ」ということです。同じように,日々の生活で使っているたくさんの言葉が,見ることに関係する語源から生まれているんですよ。見るを語源とする言葉を日常生活でたくさん使っている,この事実が証明していますでしょ,どなたでも歓んで生きている人は,(訳注:空洞のど真ん中にましまして,私どもが心魅せられ,信頼して身を委ねない訳にはいかない)キリストに見(まみ)えることが出来ます。すなわち,アイデアとは,あの心眼の中に物事をジャッジする正しい物差しがあります,ということですし,歴史とは,出来事が眼に見える形で筋を通したものでしょ,それに,英知とは,最後を見通すことでしょ,謙遜でおおらかな目で。このようにして,神の真実をハッキリと見通す見通しは,確かな見通しによって生まれる,心に描いた創造・発達の中で理解することが,聖書の神様が心響かせることだった、ということに「なるほど本当だね」と合点がいきます。また,神の真実をハッキリと見通す見通しは,未来を見通したいし,いまここをハッキリと見たい最深欲求を完璧に満たしてくれます。
未来を見通す見通しは,最良であれば,結界の中にできた,聖書の神様が下さるいのちの家から見えるものに,見えるものを超えなさいという聖書の神様からの命令を与えることになりますから,もうダメだぁと一番思っていたところに,ほんの小さな逃れる道が,繰り返し起こる恐れの中から見つかることを教えてくれます。神の真実を信頼する見通しは,私ども人間の視座に目覚めさせて,留めさせてくれますから,恐れ全てを治めて、予期できないこと全てを眼に見えることの背後に隠されます。しかし,決して当然だなどと思うのではなくて,《心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、神の真実を信頼する見通しを輝かせること》(訳注:マタイ伝第22章37節ほか)そのものが,人は(訳注:気高く)創造され発達するという視座を示します。同じ印のゆえに,神の真実を認めて,善く見ることは,聖書の神様の命令であるばかりか,人を育てさないという眼に見える,聖書の神様の命令が,キリストの光の中で「とても善いよ」と聖書の神様が頷いて肯定して下さるものですから,息がピタリと合うことは五感で感知する体感を育ててくれます、罰当たりでも絶望している者にも。息がピタリと合うことが放つ光は、最高の歓びを照らし出しますし,日々の暮らしの貧しさなど何ほどのものでもなくなります。私ども夫婦が大切だと思うのは,レンブラントが,日常生活のいまここそのものが日常生活を乗り越える力があることを,最高に,ウソとゴマカシなしに,光らせてくれたことです。
アーメン、実に真実なことですよ。
毎日の生活。惰性と妥協の積み木になることもできます。
しかし,レンブラントやエリクソンが教えてくれる真実は,日常生活そのものが光になる,ということです。それは週末だけキリストが働くのではなく,キリストは毎日私どもの暮らしに光をもたらしてくださる証拠です。キリストは毎日光を下さいます。
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