どんな技術でも、その目的を忘れて使う人間は、最も人間らしいものを失っています。それは、大川小学校の「事件」で明らかなように、どんな組織でも、その目的を忘れてしまうと、その組織の末路は、人間にとって最も耐え難い結末をもたらす組織になるのと同じなんですね。
p227の20行目途中から。
しかし、人間の対人関係由来の進化もまた、新たな人間らしさと、例の義務を人間(進化した生産物でもあり、1人の制作者でもあるし、更なる進化をするための自覚的道具でもある)が受け止めなくてはならないと約束しているように思われます。その例の義務とは、自分か知り得たことと気付いたことによって、計画した行動と、自ら選択して自己抑制することの中で導かれた義務です。この進歩において、かなり大事かもしれないのは、幼稚な道徳と、青年の価値意識と、大人の倫理をキッチリと区別できるようになる、ということですね。それぞれはお隣さん同士でなくてはならないけれども、でもね、そのそれぞれが役立つのは、あの知恵のおかげで最後的に結びついた場合だけなんですね。その知恵とは、ウォディントンが言っている通りに「進化の成り行きに対して、十分に折り合いをつけること」なんですね。
幼稚な道徳と、青年の価値意識と、大人の倫理の区別が大事で、しかも、結び付けたほうが良い。矛盾してますよね。エリクソンが言いたのは、いったいどういうことなんでしょうか?
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