素晴らしさ。『新約聖書』では、パウロの手紙の中にあります。「フィリピ人への手紙」第3章8節です。前田護郎先生の翻訳で見てみましょうか。
「8そして今も、わが主キリスト・イエスを知ることのすばらしさのゆえに、すべてを損と思っています。」
素晴らしいことはいろいろあるのかもしれませんが、パウロはここで、イエスを知ることこそが素晴らしいので、その他のことは「損」、見劣りするものとなったと言います。ただし、この「知る」と言うのは、科学的知識を「知る」と言うような意味での「知る」ではありません。この「知る」はいわば、体験知、人格的真理でして、私が良く例示するのは、自転車に乗ることを「知る」のに似ています。教科書で自電車に乗ることを勉強しても、あまり役に立ちませんでしょ。
「知る」の話ではなかったですね。素晴らしさは「超越」入り。素晴らしさ ὑπερέχω ヒュベルコーは、「超えて」を意味する接頭辞 ὑπέρ ヒュペルと、「ある状態のある」ことを示す ἔχω エコーの組み合わせ。横並び、タコツボ社会の中には、素晴らしいものなどないです。「超越」のない素晴らしさはないからです。「超越」こそが素晴らしい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます