エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

良心の出来方。良い良心と悪い良心。その続き。

2013-04-01 07:02:12 | エリクソンの発達臨床心理
 さて、第2の発達段階の第2段落の最初から翻訳再開です。
 翻訳します。





 2番目の儀式化の生育歴上の源は、人生の2番目の発達段階にあります。この2番目の発達段階は、心理社会的な自律性が急に成長するところに、その特色があります。ハイハイをして、結局は自分の足で立つことができるようになることは、「自分はできる」という気持ちを強めることに役立つので、その気持ちはすぐに、「ダメ」と言われることをやりたがる気持ちになります。もしも、最初の赤ちゃんの時の発達段階に、「希望」の土台を割り当てるとすれば、第2の発達段階、つまり、幼児期に根っこがある基本的な力は、「意志」であると私は考えます。認知力が、筋力や移動する力とともに、新たに身に着いて、お母さん以外の人とともやり取りが増えるので、条件さえ良ければ、自分の意志をはっきり出す時や、そうできるし、そうしてもよいと分かる時など、ますます嬉しくなります。これこそが、「自由意思」に人間がたいそう心奪われる、生育歴上の源なのです。「自由意思」は、自己主張できる領域はどこまでなのかに関する自分の判断を、他者の判断と折り合いをつける日常生活の儀式化において、実験の場を探し、そして、見つけ出すことになることでしょう。しかし、直立歩行で自分の足で立つということは、あらゆる方向から見られることにもなりますし、後ろからさえ、自分には見えない自分をも、見られることも意味します。第2の発達段階で手に入ればかりの自律性、すなわち、わがままの元でもあるけれど、主に自分の力でコントロールできる意志を持っている、自分は一人の人間なんだという感じ、その自律性は、すぐにその限界に出くわすことになります。その限界に気付くのは、自分が目上の人たちに見張られ、いろんな名前、時には野獣の名前で呼ばれていることに、私どもがふと敏感に気付いてしまう時なのです。さらに厄介なことに、私どもは恥を知っていますし、自分を見る人すべてに対して顔を赤らめるものです。笑われることを避けるようになることは、自分自身を外側から見つめて行動するようになることですし、自分の意志を、私どものことを価値判断する人達の見方に合わせることでもあります。しかし、このことは、心の中に自分自身を見張る見張り、すなわち、フロイトが超自我と呼んだものを育てる要請にもなります。超自我とは、文字通り、他の自分自身を見張っている自分であり、私どもに、忌まわしい自分の姿を突きつける自分でもあります。このようにして、私どもは自分自身を、価値のない、罪深い存在として軽蔑するようになります。さらには、時として裁かれた時だけホッとするほど残酷に、自分自身を軽蔑しがちなのです。そればかりか、自分自身と向かい合うことができるのは、まるでヘビを強烈にさげすむように、他者をさげすむ時だけになります。そのときは、自分は最低なわけではない、と主張できますし、自分はましな方だと言い立てることもできるからなのですね。これこそ、共に見ることに対して、この発達段階が生育歴上役立つことなのです。しばらくの間は、何が「ダメ」と言われるのかを、陽気に実験する儀式化のやり方は、一方で子どもが大胆に行動するし、他方で目上の子ども達や大人達が大声で誉めたり、あざ笑うように軽蔑する、そういうやり取りをすることによって、他者の目から見た時に、何が「正しく見え」て、何が「正しくは見えないのか」の範囲が確立されます。言葉の意味(これは紛れもなく、偽りの人間の群れを結びつけるもっとも強力な絆の一つとなる)が発達することは、言葉にできる世界に概念的に統合されたものと、それ以外の、名付け様もなく、意味もない上に、奇妙で、異質で、しかも邪悪なものとに対して、「いいよ」と「ダメ」という言葉が支配する、限られた分類を結びつけることになります。この、人を良くも悪くも価値づけるすべてのことは、心理性的な「肛門性」、すなわち、「出すと我慢の行動様式」に役立つ身体部位に、本能的に特別な快楽を与えることによって、強い意味を帯びることにもなります。最初の赤ちゃんの時の発達段階では、温かいと感じていたものが、この段階になると、上手に、正しいやり方で、正しい場所で、出さなくてはなりません。それは、臭く、汚く、ことによると毒かもしれない(と人々が言う)すべてを象徴しています。このために、その子どもは、自分自身の裏側の下半身を避けるようになりますし、実際、自分には見えない裏側がさらされている状態で、堂々と立つことを避けるようになりますから、その子どもは、自分のメンツをつぶすかもしれないと分かるし、最悪、下等な野獣を呼ぶ、糞のような呼び名で呼ばれて、恥をかかされることに苦しむかもしれないことも分かります。恥をかかせることでその子どもの正体をばらせば、その子どもは、猛烈に一人ぼっちと感じるかもしれませんね。しかも、その子どもは、自分自身を疑ったらいいのか、それとも、自分を裁く人たちを疑ったらいいのか、分からないのです。目上の子どもたちは、自分もそうされたんだから、「ダメ」と言わざるを得ないと感じるし、このようにして、いっそう厳しく「ダメ」と言うようになります。さらには、世間の正義を代弁する裁判官気取りで、子どもに関わる大人は口をきくけれども、罪は裁けど、罪人は裁かず、別のチャンスを与えるのが、是認と否認の儀式化(高度に象徴的な意味で、同じことを繰り返すことになります)ではなかったですか?






 ここで翻訳終了します。

 以下の部分は、「悪い良心」がどのように作られていくのか? それが身震いするほどリアルに描かれていましたね。エリクソンは実に人間の心(と自分の心)をよく観察している、と感じます。
 特に、親ばかりではなく、教員や保育士など、日頃から子どもと関わる仕事をしている人々は、「世間の正義を代弁する裁判官気取りで、子どもに関わっていないか?」点検していただけたら、と考えます。
 これで、第2の発達段階の第2段落は翻訳完了となります。



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