Toys and Reasons 『おもちゃ と 賢慮』から,Speciation and Ritualization 自分を上等と見て,人を見下す見方 と 日常生活を礼拝にすること の p.82,4から。
日常生活を礼拝にするとは、2人の人がやり取りする中で、お互いに相手を大切にするものであり、自分を中心と認めると同時に、他者も中心と認めるやり取りです。儀式化日常生活を礼拝にするとは、2つの中心を持ったやり取りなので、楕円形をしています。この楕円形を成したやり取りがあること自体が、やり取りをする2人がお互いに価値を認め合っていることになりますから、この2人は助け合い、補い合うようになります。信頼関係に基づいた、平和と安心が生まれます。2人がやり取りをして、助け合い、補い合うからこそ、日常生活を礼拝にするとは,楕円形を描くのです。
今回は日常生活を礼拝にすることのまとめの後半です。1つの楕円が分裂して、2つの自己中心の円に分かれる危険が語られます。それは、2人の間にやり取りが失われて、助け合い、補い合いもなくなってしまうからです。バラバラとなって、2つの自己中心ができれば、 「どっちが上か」を争う ようになることでしょう。家族の病理~社会病理の始まりです。バラバラになることが、全ての不安・思い煩い(重い患い?)と全てのウソと争い(戦争)の始まりだからです。
4. 日常生活を礼拝にするとは、芽生えつつある、いくつもの認識パターンを、その地域に住む人々が「共に見る」一般的なヴィジョンのために、役立つものにしてくれます。たとえば、ユーロック・インディアンの食事の例では、私はそう思ったものですが、日常生活を礼拝にすることは、おっぱいをもらう時や、実際に世話を焼いてくれる頼りになる人たちと、赤ちゃんが出会う時に、感覚運動的やり方で覚えたことを利用するばかりではなくて、正しい部類のものや人を、悪い部類のものや人から区別する、成長しつつある分別を利用し、育むことでもあります。
5. 日常生活を礼拝にすることをお示しすることが、私どもの特別な意図になるでしょうから、それぞれ連続する舞台(発達段階)において、日常生活を礼拝にすることは、あらゆる儀式の意味(ここでは、聖体を口に含む、聖餐式の意味です)に、不可欠ないくつかの側面を発展させてくれます。その儀式に不可欠な側面は、後ほど、大人の儀式の目録にある際立った要素であることが分かるようになるでしょう。
6. 日常生活を礼拝にすることは、役に立つのであれば、どんな社会でも、主要な諸制度の一つにとって不可欠な、社会的区別、という経験を発展させてくれます。ここで、社会的区別とは、命じられた良い行いと、恥知らずで罪深く、大人になってから法廷で出くわすような様々な行いとを区別することです。
7. そして、最後に、日常生活を礼拝にすることは、自分を確かにする独自の道を次第に発達させるための心理社会的な基盤を提供してくれます。自分を確かにする独自の道は、青年期のなると、様々な「堅信礼」の儀式によって、印(色・薫り・雰囲気)がつけられます。これは、「第二の誕生」です。それは、子どもの頃に自分を確かにしてくれたすべてを、物の見方と、何が信頼できるのかということを組み合わせた、世間の常識の中に組み込みます。たほうで、日常生活を礼拝にすることは、望ましくもなく、邪悪だし、よそ者を思い出させもするもの、すなわち、「自分より下」の人間たちを思い出させるもする、あらゆる望み、あらゆるイメージに対して、自分たちと価値観には相容れない存在だという、レッテルを貼り付けます。
後半戦は、日常生活を礼拝にすることのアンビバレントな側面が示されます。
正の側面を取り上げれば、日常生活を礼拝にすることは,自分を確かにする道を次第に発展させてくれる基盤になるものだ、といいます。また、日常生活を礼拝にすることは、正邪、善悪、浄不浄を分ける分別を育んでくれる、とも言います。自分を確かにする道は、その人ならではの印(色・薫り・雰囲気)がある、というのも、嬉しいです。逆に申し上げれば、儀式化がなければ、自分は育たないし、自分を確かににすることもできない、ということでしょう。
日常生活を礼拝にすることの、負に傾く、“危険な香り”のする側面を取り上げれば、それはすなわち、「人間を上下2つに分けるウソ」に関わるかもしれない特徴です。人がいったん儀式化のやり取りを失ってしまえば、日常生活を礼拝にするはことは,いつでも、村八分とあらゆる邪悪な暴力を生み出す温床(儀式主義)にもなりえます。
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