日常生活の礼拝は、神経症の症状では全くない。日常生活の礼拝とは、そうではなくて、合理性では割り切れない不思議を、切り捨てるではなくて、包み込んでいくためにあるもの、それは同時に、自分の様々な持ち味を生かし、まとめ上げるものだ、というのは驚きです。
今日は、日常生活の礼拝について、エリクソンがまとめている部分の前半です。
日常生活の礼拝は、一番うまくいっているときには、すなわち、生きた文化圏の場では、ひとつの創造的なパターンとなり、ついつい「強迫的に」やりすぎ、行き過ぎてしまう気持ちと、「強迫的に」自分を出してはいけないという気持ちに無意識になることを避けるのに役立ちますし、社会的規範の崩壊(家族間や近所での殺人・虐待・傷害・ストーカー、繰り返される無差別殺傷事件、行政や会社の「組織的違憲行為・組織的不法行為[放射能を垂れ流し、水俣病や障碍者と認めない、「わ〇み」のように、パワハラや過労自殺を認めない・・・]」・・・)、と道徳的な強制(「校則なんだから、守りなさい!」)をも防ぐのに役立ちます。日常生活の礼拝は、私はそのように主張するつもりなのですが、次のように、桁外れにたくさんのことをやってくれます。
1. 日常生活の礼拝は、(1人の人の)目の前の様々なニーズ(ここでは、お腹が空いた)を満足させることを、2人の人がやり取りをする、という文脈に、引き上げてくれます。したがって、日常生活の礼拝は、本能を昇華してくれる(コントロール可能な情熱)けれども、たほう、日常生活の礼拝は、パーソナリティ、つまりは、<私>が中心にいるという、まだ脆い感じを、自然界においても、精神世界においても、自分たちが中心にいるという集団の考えと、しっかりと結びつけてくれます。
2. 些細な、毎日やっていることの、正しいと認められているやり方を教える時に、日常生活の礼拝は、 (1人の人の)子どもっぽい「何でもできる」という感じを、「これこそ、私たちの明白なる使命だ」という人々に共通する感じ(サケの不思議な生態を支配する力)に変えてくれます。
3. 日常生活の礼拝は、 (1人の人の)「自分には値打ちがない」という様々な感じ を、自分たちの文化圏の内外にいる「よそ者」達へと、そらせます(投影します)。そのよそ者達は、「やつらはどうせ正しいやり方なんぞ分かるもんか」と、排除されることもありますし、「どうせ自分には、正しいやり方は分からない」と自分自身を排除してしまうこともあります。
日常生活の礼拝には、実に様々な働きがあることが分かります。エリクソンは、7つの特色をここでは取り上げます。今日はその内の3つを翻訳いたしました。この3つの特色を別の角度、別の表現をしますと、次のように、別のまとめ方が可能です。
一つは、日常生活の礼拝は1人の人の感じ を、2人の人がやり取りをする中で「共に見る」感じにする働きがありますよね。ですから、1人の人は安心ですし、力強い感じがするはずです。元気が出ますよね。そのようにして、<私>は「私たち」と言うことができるようになります(The Life Cycle Completed : A Review を参照されたし)。
もう一つは、日常生活の礼拝は、自己中心という、普通は批難されやすいことに、価値を認めることになります。日常生活の礼拝は、自己中心だけを認めるのではなく、他者中心を同時に認めるものだからです。しかも、日常生活の礼拝は、やり取りをする中で、お互いに相手の自己中心を認め合う形で(「あなたはあなたの人生を生きればいいのです」、さだ まさしさんではありませんが、「あなたは自分の人生という舞台の主人公」)、お互いを価値あるもの(中心)と認めるのです。ですから、日常生活の礼拝は2つの中心を持った楕円形を描きます。
三つ目は、日常生活の礼拝は、子どもっぽい「自分は何でもできる」という感じ、幼児性の強い万能感を、人々の中で共通する思い、人々の中で正しいと見なされているやり方と結びつけます。しかし、それは逆に、「自分には値打ちがない」という感じ をよそ者達に投影することと表裏一体であるためは、「よそ者」を排除し、「よそ者」に対する新たな憎悪と結びついてしまう場合もあります。ここに、 「人間を上下2つに分けるウソ」が入り込む余地が出てきます。
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