精神分析(心理療法)は、クライアントに対して他者(権力)から支配されない自由の場を提供することで、クライアントが無意識から支配されない自由を手にすることを支援するのです。自由は、人間にとって根源的に必要不可欠な条件ですし、民主主義の根幹ですから、心理療法は民主主義の基盤を作っているということになります。日本では、まだまだ心理療法がマイナーなのは、日本の自由と民主主義がそれだけマイナーだからです。
私は、既にたくさんの文脈において、ハッキリ知りたいと思ってきたのは、この自信過剰な事実の結果が、精神分析の概念化にもたらしたものは何なのか? ということでした。精神分析の注意は、明らかに、心の中の目に見えない出来事に集中しますし、実際問題、「心の中の力」と呼んだり、「心の中の制度」とさえ呼んだりする者の同士の間のやり取り、例えば、超自我との関係の中での自我を理解しようとします。社会的な制度は、その代りに、「心の外なる目に見える世界」の一部として呼ばれます。それは、目には見えない出来事を映し出す(投影する)馬鹿でかい外なるスクリーンと言って間違いではありません。私は、しばらく、目に見える制度と目に見えない制度が、実際に、お互いに、お互いによって、どのように補い合い、どのように存在するのかを、より詳しくお話ししようと思います。ところで、1人の患者の心の中のスクリーンに映りだされたことが少なくとも示しているのは、その人個人が、その集団のヴィジョンによって、生きているという事実以上のことを、その人の臨床歴が、私どもに教えてくれている、ということです。1人の患者の心のスクリーンに映っていることは、多くの場合、患者本人が知っていたり、告白したりすること以上なのです。しかも、その集団のヴィジョンが、たとえ、宗教的な世界のイメージの形であっても、政治的世界のイメージの形であっても、それを1人の患者の心のスクリーンに映っていることは超えていますし、あるいは、集団のヴィジョンが、言葉にできる思想や輝かしい政策のような過剰に意識的なものに見えたり、「生き方」としてボンヤリ分かるだけだったりする場合も、それを1人の患者の心のスクリーンに映っていることは超えています。すなわち、集団が持っているヴィジョンが、人々の心に深く根を下ろした、純粋に信頼する体系なのか、それとも、まだたま、目に見えない形の取引でも目に見える形の取引でも、大なり小なり狡い罠のママなのか、に関わらず、それを1人の患者の心のスクリーンに映っていることは超えている、のです。
1人の患者の心のスクリーンに映っていることは、集団のヴィジョンを超えている。逆に申し上げれば、集団のヴィジョンを超えたヴィジョンを抱えている人が、患者に見える(患者になっている)、ということです。
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