夢はその聴き手のヴィジョンに影響されることがある、勝手気ままに見ていると思われる夢にさえ、この様な秩序があるというのも、実に不思議なことです。
それで、私どもの事例が力強く示しているのは、私どもがあまりハッキリしない文脈の中で解決しなくてはならないかもしれないことです。つまり、この「古典的」な精神分析の場がいつも最大にするものです。すなわち、意識する新しいゆとりを伴う、話し言葉にする自由、無意識のテーマに気付くこと、自分の過去を取り戻すこと です。しかし、私どもがさらに分かることは、直立する姿勢を取ることで無視していることです。なかでも、お互いにやり取りをして、ピチピチ、キラキラ生きている場で、顔と顔を向い合せにすること、自発的に移動すること、歩み寄ることができるゆとり、です。そして、もし実際に、観察する実験室が、観察する際に特有の「考慮すべき諸要素」、観察対象のデータや到達した多種多様な概念に対して、観察することがもたらす影響という点で、調べられなくてはならないとしたら、私どもがこの文脈において、結論を出さなくてはならないのは、精神分析の場がほとんど体系的に「支配的な」行動を最小限にし、そのようにして、(ずっと昔に、アルフレッド・アドラーが抗議したことですが)人間が人間を支配する側面も最小にしている、ということです。この人類の支配的側面はそこから、マルクスが、歴史的対立によって労働者が大げさに分裂したときに、(フロイトと)同じ世紀に、世界に対する物質的な物の見方(唯物論)に練り上げたものでした。
精神分析の場が、 人間が自由になるための場です。人間が支配されるものは、少なくとも2つあります。それは、無意識と他者(権力)です。精神分析(心理療法)は、クライアントに、自分で自分をコントロールする自由・ゆとりを持つ場を提供することによって、クライアント自らが、無意識に支配されている状態から自由になるものなのです。
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