患者のヴィジョンは、集団のヴィジョンを超越している、ということは、極めて大事な視点です。その患者のヴィジョンこそ、私どもが1つの人類、本物の平和を実現するために、必要不可欠なものなのです。そういう意味では、患者になっている人はすべて、私どもが人間的な暮らしを実現するために、身代わりに苦難を担当してくださっている、と言って間違いありませんね。
このような学びによって、私どもがよりよく理解できるのは、革命的治療法は、その名に値するものであれば、世界に対する新たなヴィジョンをもたらたしてくれる、ということです。精神分析の実践と理論に暗に示された世界のイメージについて議論すれば、それは、ロイ・スカファーの『リアルに感じることに対する精神分析的ヴィジョン』に関する印象的な意見から始めるのがいいでしょう。彼はその著書の中で、物語を創る姿勢を精神分析的なヴィジョンだといいました。その物語が悲劇であっても、喜劇であっても、風刺劇であっても、恋愛劇であっても、物語る姿勢は精神分析的なヴィジョンなのです。彼もまた、「リアルに感じることのヴィジョン」について語って、次のように言います。
ヴィジョンという言葉は、半ば主観に根差した判断を意味します。つまり、それは、想像する行為と信じることに根差した判断なのです。たとえ、その想像する行為や信頼することは、たてえ、幻想であったり、複雑であったりしたとしても、リアルに感じることに対して、別の角度ではなくて、ある特定の角度から見ることを、必ず意味するのです。ヴィジョンが客観的諸事実の取捨選択とその客観的諸事実の関係と解釈に影響するにつれて、ヴィジョン同士の間の衝突は、「証拠」に訴えかけるだけでは、解決できません。この衝突が、単に意見の問題だと思ったら、大間違いです。
ロイは、精神分析的な、「リアルに感じることに対するヴィジョン」を追い求める中で、精神分析化された新しい人のいう、1つのイメージをハッキリ述べています。そのイメージは、フロイトの治療的・哲学的雰囲気にまぎれもなく近いものです。
責任と選択の問題が分析に加わるにつれて、悲劇的理解がますます強調されます。そのとき、分析を受けている患者は、承知の上で、しかも、残念そうにさえしながら、しかし、当然のことながら、自分を苦難に巻き込むことになるだろうと知っている選択をするのです。ただし、同時に、その患者は、自分の人生を楽しむチャンスとともに、自分が出逢う危険や面倒を減らすチャンスも高める自由をより満喫できるだろう選択をも、しているのです。
精神分析は、患者になっている人がいっそう自由になるための選択である、ということが示されました。それは、当初は苦難であっても、結局は、患者その人に、人生を愉しみ、危険と面倒を減らすチャンスに恵まれることになる、という福音なのです。その先覚者が、患者と同様な状況を経験した、エリクソンやフロイトやユング達でしょうね。彼らは、自分が得た自由を独り占めすることなく、私どもに、その自由をお裾分けくださっているわけですね。今現在、患者を担当してくださっている人も、私どもがいっそう自由に、いっそう人間らしい暮らしができるように、苦難を担当してくださっていることになります。
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