弱い立場の人を「その子ならでは」の存在と認めるためには、最初は「意識して自分のことはいったん脇に置いとく」ということをし続ける必要があります。そのうち、それが習慣、心ぐせになりますね。今日はp27の最後の段落。
(今日の写真、いいでしょ? 4時の日の出です。)
「ノリッジ、弱い立場の人を良く見て、忘れずにいること」は、さらにもう一つの、そして、非常に根源的な関係が、≪真の関係≫という課題に対してあります。「自分が相手にされない、という牢獄」に打ち勝つために、誰か他の一人と一体になりたい、という根源的な欲求は、もう一つの人間独自の欲求と、切っても切れない関係です。その欲求とは「人の秘密」を知りたい、という欲求です。人の命そのものが、生物学的に言っても、奇跡ですし、一つの謎です。人間的に言っても、人って、当人にとっても、推し量りがたい謎ですし、他の人にとっても、同じように謎です。私どもは自分たちのことを知ってはいます。ですけれども、たとえあらゆる努力を払ったとしても、私どもは自分について、すべてが分かるわけではありません。私どもは、仲間を知ってはいます。ですが、私どもは仲間のことのすべてが分かるわけではありません。というのも、私どもはモノではないからですし、私どもの仲間もモノではないからです。私どもは、自分らが生かされていることの深みを知れば知るほど、あるいは、誰か他の人の人生の深さを知れば知るほど、「弱い立場の人を良く見て、忘れずにいる」という目標からは、私どもはますます離れてしまいます。それにもかかわらず、私どもは、人間の魂の謎の核心まで知りたいと願わざるを得ません。私どもは、「その一人の人間」の最深欲求を知りたい、と願わずにはおられません。
人は自分のことでさえ、そのすべてを知ることはできません。ましてや、隣の人がたとえ自分の子どもであっても、そのすべてを知り尽くすことなどできません。それでも、人って、自分の、隣人の、心の奥底の願い、最深欲求を知りたい、と願わざるを得ません。
相手のことを知り尽くすことができないら、相手に対して寛容になることができます。逆に申し上げれば、相手に対して厳しくしてしまうのは(寛容になれないのは)、自分は相手のことは誰よりも知っている、すべてお見通しだ、「そんなものよ」と言う思い上がり、高慢があるからなのですよ。
相手のことを知り尽くすことなどできませんが、しかし、同時に、相手の「最深欲求」を知りたい、と願わざるを得ません。知り尽くせないからこそ、相手の最深欲求について、謙虚な気持ちでアプローチせざるを得ないのです。
ここに、人に対する寛容と、人を知る際に、謙虚な心にならざるを得ない、心の姿勢の根っこがありますよ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます