根源的欲求の行方 内村鑑三の『後世への最大遺物』
楽しく想像力を働かせることと現実そのもの、遊びと現実がそれぞれお互いを作り出す親であり子でもあることが分かりました。らせん状にお互いが向上しあうことでしょう。また、遊びが世界を動...
自分ならではの人生を歩むこと、自分の人生の主人公に自分がなることが、後世への最大遺物になる、ということは、とても大事ですね。そして、これが日本では、ことさら困難な点にも注意を払う必要があります。「馴れ合い」や「群れ」の生活をしていたのでは、自分を確かにすることはできません。しかし、「馴れ合い」や「群れ」の生活なしに、今の日本で社会生活を営むことは、非常に困難です。
むかし、私の恩師 西村秀夫が、西村先生自身の恩師、矢内原忠雄の言葉を紹介してくれたことがありました。それは、「最初に自分の旗印を明確に示す」ことが大事だ、ということでした。当時私は大学生でしたから、ピンときませんでしたね。ただ、その言葉がとっても大事に感じられて、ノートにメモしたことでした。
このこと自体が、「馴れ合い」や「群れ」の生活に慣れた人には、違和感を覚える人があるかもしれませんね。「馴れ合い」や「群れ」の生活に馴染んだ人だと、「自分をあいまいにしておく」ことが、「多数派」になるために必要だと考えるだろうからです。しかし、実際に、その道を実践してきた立場から申し上げれば、案外やりやすく、周りの人も「あっ、そうなのね」という感じで、それほど抵抗はない感じですね。
課題になるのは、自分の方向性と、組織のめざす方向性のズレが明確な場合です。その場合は、自分と組織が、「対立関係」になりやすい。日本の組織の中で、その組織と対立した場合は、「村八分」です。悪くすれば、懲戒免職、諭旨免職、良い場合でも、「窓際族」行き、かも分かりません。これは、加藤周一さんが明快に分析されているように、「集団そのものが絶対化」(『加藤周一コレクション 現代日本の文化と社会』p22)していますし、「日本人の集団所属性は死よりも強し」(『加藤周一コレクション 現代日本の文化と社会』p21)だからです。日本では、集団、すなわち、会社や役所や家族そのものが、神なのですね。その神と対立するのは、「天に唾するもの」とみなされやすい。
それでも、「ものは考えよう」です。「少数者、マイナー として生きる道」を選ぶのも面白い。ある意味、「贅沢」なのかもしれませんよ。ブランド物を身に着けるよりも、よっぼと清々しい。第一、自分ならではの人生を生きることこそ、「後世への最大遺物」なのですから。
あなたも、ご自分の「旗印を明確に」してみませんか?
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