遊びが大人になると生まれる子ども:日常生活の儀式化 パリコレ
現状肯定にも、2つの側面があること、伝統の場でも、楽しい感じのある想像力と直感によって、新たに精神的連帯の場に変換することに現状肯定が役立つこともあれば、現状肯定に開き直って、現...
NHKの朝の連続テレビ小説「花子とアン」。「大地主の倅との結婚」という、当時としては、女性の最高の「成功物語」(写真のような「旧岩崎久彌邸」ほどではないにしても、立派な家、贅沢な食事や服は保証されたでしょうに)であったはずなのに、そのような既存の「成功物語」に引きずられることがありません。何故なんでしょうか?
花子は「palpitation ときめきがある人が見つかったら、その人と結婚したい」と言います。自分の心の動き、自分の「声なき声」に応えて、聴き従った、と言えませんか? みなさんも、経験ありますでしょう、たとえ、「毎回そうしている」というわけではないにしても。
花子の特色の一つは「想像のツバサを広げる」ことですね。その空想のおかげで、屋根から落ちたり、夜に子どもと図書館に出かけたり、で、「問題」をいろいろおこします。教員をしている小学校の校長先生や「生真面目な先輩教師」に言わせれば、「問題教師」そのものです。
他方、夜に図書館に一緒に行った子どもの「先生が作ったお話の続きを聴かせてくりょ」という声に従って、それに応えて書いた物語「みみずの女王」が懸賞童話に当選。「花子とアン」の物語が展開していきます。
「真面目な先輩教師」と花子。一方は「真面目」、「無難」、「堅さ」、「難さ」でしょうか。他方は「落第教師」、「学校の先生に向いてない」と言われてしまいます。一方は仕事はするのでしょうけれども、面白みがない「生真面目」です。かたや、常識はずれですが、「楽しい」。花子のクラスの子どもたちも、それをチャーンと感じているのです。
「真面目」を否定しているのではありません。本当に「楽しい」ときには、新しい何かが生まれてくると同時に、一定の秩序ができます。その秩序は外から強制された秩序とは全く違いますよ。新しい何かが生まれますから、既存のものや現状が否定されます。ところが、同時にそこには一定の秩序があるのです。それは遊びの中に、楽しさがあるのに、同時に、秩序やルールがあるのと全く同じです。
人がイキイキ、ピチピチできるのは、この種の ”遊び” があるときだけ、ですよ。
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