「正しい行為」によって「良し」とするのは、なにも中世のキリスト教の専売特許じゃぁありませんね。今の日本の学校でも「正しい行為」によって、「良し」とする傾向が甚だ強く、甚だ多い。そして、これが、日本の学校教育を、根源的に病んだものにしている元凶です。
Young Man Luther 『青年ルター』のp186の第3パラグラフから。
しかしながら、儀式の小宇宙の中で、積極的に自分に永遠の命があると思ったり、自分には価値があると見なすことは、キリスト教や世俗的な官僚の小集団に限られる、と付け加えておかなくてはなりません。大衆が(儀式に)参加できるのは、傍観者として、非難を投影される人としてだけでした。こういった、儀式に寄生して自分を確かにしようとする道が、心理的な力のほとんどを失ってしまうのは、支配層の様式化のし過ぎによって、時代の増し加わる危険に対する壁が脆くなる時です。時代の危険とは、すなわち、ペスト、梅毒、(攻め来る)トルコ人、ローマ法王と主君を捨てることです。同時に、物理的に戦ったり、心理的に戦ったりすることを防ぐ確立された体制が急激に崩壊したのも、この時ですが、それは、火薬ができたり、印刷術ができたりしたためでした。
神聖な意味を失った儀式は無力です。時代の危機にはなんの力もありません。エリクソンは常にそうですが、歴史を語りながら、いつでも意識は現在でした。
そして、私どもも、そうでありたいものですね。儀式的なことは、一神教の社会と比べて、日本では、もともとその意味が強いとは言えませんでしたが、現代では、そのほとんどが力を失っています。しかも、新たな礼拝ができているわけでもありません。
今の日本では、自分が他者と共に、不完全であっても価値がある、と確信できる新しい礼拝が必要な時代です。
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