謙遜と客観性は、意外に近い。
p111第4パラグラフ。
人を大事にする技術を練習することを議論する点で、これは、人を大事にするとは、自己愛から相対的に卒業していることによって、初めてできることだから、人を大事にするには、謙遜、客観性、分別が必要だ、ということです。人の生活は全部、この目的のために、向けられていなければなりません。謙遜と客観性は不可分ですが、それは、人を大事にする気持ちが不可分であるのと同様です。私は第三者に客観的であることができなければ、自分の家族にも、本当には客観的であることはできません。逆も真なりです。もしも私が人を大事にする技術を学ぼうと思えば、あらゆる状況において、客観的であるように努力しなくちゃあ、いけませんし、また、自分が客観的になれない状況に敏感でなくちゃぁ、いけません。「私」が抱く人に対するイメージとご当人が際にやっていることの差を理解しようとしなくちゃぁ、いけません。というのも、私のイメージは自己中心的に歪んでいるからですし、その当人の現実は、私の興味やニーズや恐れに無関係だからです。客観的で分別があるという能力を獲得することは、人を大事にする技術を獲得する過程の道半ばです。でもね、その力は、関係するすべての人に関して、手に入れなくちゃぁなりません。もしも、自分が気に入っている人に対してだけ、客観的でありたいと願いながら、世間の他の人との関係では、客観性なしで済ませたいと願うのならば、自分がどこででも客観的でいることはできないことに気づくでしょう。
今日のフロムはエリクソンとシンクロ。人を大事にする気持ちは、客観性と同様、必然的に人類全部を大事にする「人間皆兄弟」に繋がる、とフロムが言うからです。「人間を上下2つに分けるウソ」では、人を大事にすることも、客観的であることも、できないわけですね。
これは、「問題児」だからと言って邪険にしているようでは、誰ひとり、人を大事にすることなんぞできないし、それは同時にその「問題児」を客観的には見れてないことを示すことだ、ということを付け加えておきたいと思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます