エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

政治の愉しみ:嗤い

2013-05-28 03:35:25 | エリクソンの発達臨床心理
 「共に見る」ことのないイメージと現実は、薄っぺら。そこでは、目には見えないこと、すなわち、やさしさ、ぬくもり、よろこび、そして、生命、基本的人権、人間らしい暮らしなどが、必ず疎かになってしまいます。恐ろしいことです。今日は、政治の愉しみが話題になります。





様々な政治的立ち場の対極、ベトナム戦争に反対する立ち場のアメリカ人たちを一瞥するとき、確かに純粋に楽しい要素が、行進やデモにはありましたし、不法なやりすぎと言う重荷を時には権力側に負わせ、多くのアメリカ人の政治的想像力を変革するのに役立ったのは、まさしく自発的な非暴力行動であった、と私どもが信じる十分な根拠がありました。しかしながら、今の文脈では、声高な声を発する少数派が、儀式行為の別の発達の「舞台」、つまり、法廷を、即興喜劇を発表するための劇場に変えてしまう、そのやり方を思い出します。もちろん、嘲りの伝統的なシナリオは、お城の中にも、劇場にも、サーカスにもあります。そこでは、ピエロたちが雇われて、ローブをまとった権力者と統治される無力な者の双方を装い、芸術的に(安全に)嗤うために働くのです。ジョン・レオナードは、「シカゴ・エイト」の裁判(一貫性のないホフマン判事が取り仕切った)を扱った『ホフマンの作り話』という本の書評で、悲劇的な結論を述べました。「シカゴ・エイト」とは、ある党大会で暴動を起こそうとひそかに(心の中で)共謀して、州境を超えたかどで起訴されたグルーブです。被告たちは、それは忘れられないでしょうけれども、その政治的な裁判を一遍の笑劇にしようと試みました。その笑劇を、レオナルドは、現存する劇場や前衛演劇の公演になぞらえています。みんながそのお芝居に巻き込まれます。レオナルドはじっくりと考えます。

しかし、実際、最も重要なのは、目には見えない心の中で、「おまえは、州境を超えることができるぞ」と言っているように感じる律法(良心)でした。みんながその裁判をゲリラ的バカ騒ぎに変えることが出来なければ、私どもはあの律法(良心)を試していたかもしれません。それはまだ六法全書の話かもしれませんが、私どもはその六法全書とジューク集を競わせます





 政治の嗤いの話です。今回のところは、アメリカの当時の時事的なことが話題の中心ですから、分かりにくいところです。「シカゴ・エイト」については、インターネットなどで調べればある程度分かりますので、それを参照していただければと思います。
 「シカゴ・エイト」(シカゴの民主党大会で暴動を共謀したかどで起訴された8人)が、政府によって強権的に画策された政治的裁判を、喜劇にしたことが話題になります。この時事的話題を、幼児前期の良心の形成期、および、学童期の演じる儀式化の時期と結びつけて考えているところが、エリクソンの真骨頂でしょう。エリクソンは、レオナードの書評を引用しつつ、そのことに触れています。権力を嗤いにすることで、学童期の演劇的要素が幼児前期の課題である良心を、より人間的なものにするのに役立つ、そうエリクソンも考えていたとみて、間違いないと思います。しかし、エリクソンはそれだけではありません。非暴力の力を非常に高く評価し、良心の最も良質の(寛容な)形として考えています。今日はそのことには深入りしていませんが、そのうち話題になることでしょう。
 今日はここで失礼します。
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