エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「共に見る」ことのない遠くの現実のイメージ:残るは単純な論理

2013-05-27 05:38:20 | エリクソンの発達臨床心理
 目には見えないことが信じられないと、モノと数で世の中は回っている、と死に物狂いで信じてしまうその死に物狂いの姿は、別にペンタゴン・ペーパーの専売特許ではありません。また、精神科の病棟にある、というのでもありません。むしろ、株や円の示す「モノ」の「数」、その乱高下に一喜一憂する人々、加藤周一が言う「超越」を知らない人々(多くの日本人)にこそ、根源的信頼感を信じることに失敗した、死に物狂いの姿を私は診ます。今日はどんなことをエリクソンは私どもに教えてくれるでしょうか。楽しみです。





 私がこれらのニュース解説者の言葉をここに引用するのは、第一に、彼らが隠喩を用いたからです。その隠喩は、明らかにニュース解説者らの雰囲気と大衆の雰囲気とに意義深いものでした。さらには、その隠喩は、私どもの理論的な目的にも役立ちます。私が引用した批評で明かされた不満は、その後で、北京で一週間、歴史を変えた方法では、解消されずにいます。その不満は、マクルーハンのような最高の流儀に従えば、見事な効果を狙ったテレビ番組から始まります。そのテレビ番組は、世界中の何百万の人々が、自宅のテレビ画面で目撃したけれども、その現場を実際に訪れた、そばにいる人と「共に見た」訳ではありません。地球上で最も人口密度の高い国々の間にある「竹のカーテン」は、感情もあらわに取り払われました。それは、本学の、ジョン・K・フェアバンクが次のように結論するほどです。

遠い現実に対する私どものイメージは、その変化が、現実がどうしても現実そのものを変えていく変化よりも、はるかに速いことから、私どもに残されるのは、単純な(愚かな)論理のオプションです。つまりそれは、私どもは中国に関して今現在バカなのか、それとも、冷戦の間、長年私どもは中国に関してバカだったか、のどちらかです。私どもの同盟国、イギリスとフランスは私どもほどバカではなかったですが。

このテレビ番組は、歴史という名の劇場のことを話すことが、単なる隠喩では決してないこと、それを明らかにする一連の出来事の中で、最も明瞭な、唯一の実例でした。




 ここでは大事なことがサラッと触れているように思います。テレビ番組で知らされるベトナム戦争は、その見ている現場を経験する身近な人と「共に見る」物ではなかったということ、この点が大事です。また、その遠い現実に対するイメージは、現場を近くで「見て知る」人と「共に見る」ことのないイメージであることから、それを目にした者には、単純な論理しか残らない、という点も同様に大事です。私どもは、事実に対するイメージを、「共に見る」ことのないままに持つ時、その「現実」は単純で薄っぺらなものにしか見えなくなるのでしょう。 今日はここまでにします。
   
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