エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ウソ、そして、アイデンティティ形成と「一つの人類」

2013-07-19 04:23:03 | エリクソンの発達臨床心理

 

 人が自由になれるのか、束縛されてしまうのか、の別れ道は、 「人類を2つに分けるウソ」の取扱方次第、ということでしたね。

 今日は、ウソって何? が登場した後、アイデンティティ形成と「一つの人類」というあり方、が話題です。

 

 

 

 

 しかし、私どもは「ウソ」って言う時、何を意味するのでしょうか?これって、腹立ちまぎれの言葉かもしれませんね。そこでは、ウソって言ったら、インチキか、悪意のあるごまかしでしょう。自然に意味するものが、何かを説明すれようになればなるほど、それは、似て非なるもっともらしい事の見た目のみを意味するものでしかなくなります。人間がフリをしているのを見る時には、その代りに、純粋に役割を演じることや創造的に演じていることから、わざとだましたり、政治的に誤魔化したりすることまで、人はあらゆるイメージ、あらゆる行動を考えなくてはなりません。人間が困惑するようになるのは、私どもが大人になるにつれて、無意識の働きやら、そのイメージに対して心の中で葛藤がある場所やら、私ども「仲間内 kind」だけに通用する言葉やら、に合わせるようにならなければならない、という事実があるからです。その「仲間内」は地理的・歴史的場によって定義されるばかりではなく、文化やテクノロジーの発展段階によっても定義されます。なぜなら、アーネスト・メイヤーによれば、私どもは「いろんな知識を持つ動物」であるがゆえに、多様に存在する自然的環境と多様に存在する文化的状況の中の一つに、慣れていく潜在能力を生まれながらに持っているからなのです。私どもの「ひとつの人類を分けた様々な人種」は、技術的、文化的に特定の環境に合わせなくてはなりませんから、生産したり消費したりするという意味だけではなくて、運命と実存という意味でも、特別な分別を持たなくてはなりません 「その人種」で有力なタイプ(「その人種の新しい人」、「その人種」のアダム)が、あたかも、「唯一の」人間であるかのように、まるで宇宙の中心にいるかのように、振る舞うことを許さなくてはなりません。もちろん、歴史は、交互に、裏のメロディーを奏でてきましたし、さらにはまた、そのような違いに(帝国内や宗教内で)一致をもたらしてもきました。だからこそ、歴史は、より包括的な人間のアイデンティティ(より包括的な自分を確かにする道)をも、創造してきたのですこのいっそう包括的な人間のアイデンティティ(より包括的な自分を確かにする道)とは将来、1つの人類となるいうあり方の大事な意味に私どもを導いてくれる道なのです

 

 

 

 

 フリ(仕事)には、純粋に役割を演じることや創造的に演じていることから、わざとだましたり、政治的に誤魔化したりすることまで、大きな幅があるので、フリ(仕事)を見たら、自分は、あるいは、相手は、どちらに傾いているのかを、ハッキリ見ていかなくてはなりません。そのフリ(仕事)が、創造的なのか? それとも、だましたり、誤魔化したりする方なのか?このことは、非常に参考になると思います。個人の仕事ぶりや、時の政権や企業の仕事ぶりを見たら、それが、創造的なのか? それとも、だましたり、誤魔化したりする方なのか?と問うことは、民主的社会を私どもが創造していく際の、大事な視点です

 このことと関係しますが、その社会や集団の中で最も有力な人間のタイプがどうかということが問題です。それは、そのタイプがより包括的なアイデンティティ形成を認めていけば1つの人類に至る道を歩むことになりますから、差別(虐め)や争いよりも、自由と和解のある社会を形成することができます。しかし、そのタイプが「人間を上下2つに分けるウソ」を信じてしまうと、差別(虐め)と争いが絶えず、他方、人間にとって、根源的に必要不可欠の自由を失ってしまいます

 私どもはどちらの道を選ぶのか? それが問われています!

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