「〇〇を認めるならば、権力がもし欲すれば何事でも強硬できること、つまり万能であること認めることになります。権力が万能であることを認めながら、同時に民主主義を認めることはできません。一方を否認することは他方を肯定すること、他方を肯定することは一方を否認することです。これが私たちの前に立たされている選択です」。
この「〇〇」に何が入ると思いますか? 「アベシンちゃんと悪魔の仲間たちが、2015年7月15日の昼過ぎから16日の午後にかけて強行した、戦争法案強行採決の暴挙」としても、意味をなしますね。
でもそうではありません。
実は、これは今から55年前、「1960年5月19日から20日未明に、岸内閣が新しい日米安保条約案を強行採決した暴挙」が入る所なんですね。まるでこの2つ暴挙が、パラレルであることが分かりますね。そして、この文書は、丸山眞男教授が1960年に記した「選択のとき」(『丸山眞男集』第四巻、p.347-350)です。
今日は、丸山眞男教授第二夜です。
丸山眞男教授は、ポツダム宣言が採択された翌日の1945年7月27日に、ポツダム宣言をラジオで傍受してたそうですね。その日の、自分の「備忘録」に丸山眞男教授は、
「ポツダム宣言の全文をはじめて見た時『基本的人権の尊重は確立さるべし』という言葉、それを見た瞬間、からだ中がジーンと熱くなった」
と記してんですね(ポツダム宣言の「ジーンと熱くなる」感動 3訂版)。敗戦前から民主主義の大切さをいかに認識し、敗戦後には民主主義の社会に日本も生まれ変わることを知って、いかに感動していたか、が分かります。
しかし、それから15年後の1960年には、岸内閣によって、新安保条約案が強硬採決され、民主主義が踏みにじられた事態を眼にした丸山眞男教授は、義憤に駆られてこういいます。
「岸内閣は、民主主義も憲法もルール・オブ・ローも、要するに民主主義のありとあらゆる理念と規範を脱ぎすてて、単純な、裸の、ストリップな力として、私たちの前に立っております」と批判しました。これはそのまま、次のように言い換えることができますね。すなわち、
「安倍内閣は、民主主義も憲法もルール・オブ・ローも、要するに民主主義のありとあらゆる理念と規範を脱ぎすてて、単純な、裸の、ストリップな力として、私たちの前に立っております」と。
これを否認し、これと対抗するために、私どもはどうすればいいのか? 丸山眞男教授の教えを学びましょうよ。
「(安保改定【戦争法案】の強行採決をしでかした)夜に起こったことを、私たちの良心にかけて否認する道は、ちょうど逆のこと以外にはないでしょう。すなわち、岸【安倍】政府によって、脱ぎ捨てなれた理念的なもの、規範的なものを、今こそことごとく私たちの側にひきよせて、これにふさわしい現実を私たちの力で作り出していく、ということであります」(もちろん、【 】は、引用者の挿入です)。
私どもも、今まさに「選択のとき」に立っているんですね。
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