人が倫理的な人間力を身に着けるのは、道徳の授業で習ったからでは全くありません。自分自身が葛藤を繰り返し体験して、「何のために生きるのか?」と自らにWhyと問いかけて、問いかけて、問いかけ続ける中から見つけた態度なんでね。葛藤済みの、試練を経た上での、倫理的な人間力なんですね。
The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p60の3行目途中から。
それからね、これらの言葉にいろいろある、示唆的な意味に関して言えば、hope「困難があっても、希望を失わないこと」は、hop「ピョンピョン跳ぶこと」とも関係するみたいですね。hop「ピョンピョン跳ぶこと」は、跳ぶという意味ですし、プラトンが、≪陽気で楽しい≫ことのひな形は、子どもの動物が飛び跳ねことだと考えたことを、最大限に利用するのが常でした。とにかく、hopeは、期待した未来に対して、期待通りの飛躍を見込むゆとりがある感じをくれるものですし、それは、前向きなイメージであっても、些細な引き金になる行動であっても、、違いはありません。そして、そんな大胆さがあるのは、人が誠実であることに対して根源的に信頼していればこそでしょ。それに、人が誠実であることを根源的に信頼している感じは、お母さんから大事に世話されることによって、文字通りに言っても、比喩的に言っても、養われるものですし、その信頼が、とっても絶望的な嫌なことに出くわして、危うくなったときには、溢れるほどの慰め、ドイツ語ではTrost「慰め」 を戴いて快復するものでしたね。
人が世の中を信頼できるのも、お母さんから繰り返し大事にされた遠くの記憶があればこそでしょ。同様に、困難にあっても希望を抱き続けることができる、という意味での希望hopeも、お母さんから繰り返し大事にされた遠い遠い記憶があればこそなんですね。その温もりに満ちた遠い記憶を望み見ることができるからこそ、将来に対しても、自分が期待する飛躍を、待ち望むこともできるんですね。
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