イメージの力。神谷美恵子さんの場合はどうだったんでしょうか?
神谷美恵子さん。内村鑑三の弟子であると同時に、五千円札だった?新渡戸稲造の弟子でもある 前田多門の長女。この前田多門は、1909年(明治42年)、第一高等学校(後の東大教養学部)校長だった新渡戸稲造の推薦状を持って、内村鑑三の弟子になった「柏会」のメンバーの一人。「柏会」のことは、また別に取り上げましょうね。
神谷美恵子さんは、国際連盟勤務の父親、多門と共に、ジュネーブで小学校四年~中学一年まで過ごしています。津田塾大で学んだ後、医学を志して、ハンセン氏病の療養施設で、精神科医として勤務しています。
何故なんでしょうか?
神谷美恵子さんが最初に、ライと呼ばれたハンセン氏病の人に出会ったのは、無教会独立伝道者で叔父の金沢常雄に連れられて、東京の多磨全生園を訪問したときであったと言います。この時の出会いが衝撃的であったので、医学を志すようになったと言います。
その神谷美恵子さんの著作集は、みすず書房から出てますでしょ。全10巻、別巻1、補巻2。一番売れているのが著作集の第1巻、『生きがいについて』かもしれません。その末尾に、何故「生きがい」について考えるようになったのか? が、短く記されてます。上記の多磨全生園を訪れた件も、そこにあります。神谷さん、津田塾を卒業して間もなく、当時は不治の病であった、結核に侵されました。軽井沢で療養して、自分は病が癒えたが、そこで自分と同じような年恰好の人が何人も亡くなったらしい。「なぜ自分は生かされ、あの人たちはなくなったのか?」。それが負い目になったと言います。それで、生と死の問題を早くから考えるようになった。
自分が生き残り、療養仲間は死んだ。その時の、活かされたことによる苦しみ、残された者の苦しみ、サバイバー・コンプレックス。そのことが、ハンセン氏病の人の苦しみを理解することに繋がった訳ですね…。同じ苦しみではないけれども、相通じるものが、掘り下げれば出てくるからでしょう。
掘り下げるためにはね、「観照の目」が必要らしい。
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