エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

フロイトとエリクソンの違い その1

2015-11-05 05:23:58 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
一番破滅的で自滅的な源であると同時に、最も崇高な源
  神様を見る眼差し=神様の眼差し。お互い様。 p361の21行目途中から。     ...
 

 

 実感が大事になります。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚tm書」p88の、線の後から。

 

 

 

 

 

 三重の実感のある現実

 

 もちろん、考え方としても、言葉としても、自我はフロイトが考え付いたものです。スコラ哲学においては、自我とは、身体と魂を組合わせたものを示します。哲学では一般的に自我は意識的経験がずっと残ることを意味します。ウィリアムズ・ジェームズ(1920)は、手紙の中で、時空を筋あるものにしようとする、展開する自我について触れるだけではなくて、「自我が能動的に広がる」ことについても話題にしています。ここでジェームズは、≪私≫という主語の感じについて考えていたように思います。無意識に働いている「自我」に組み込まれた働きだけを考えていたんじゃありません。

 

 

 

 

 

 自我には、≪私≫という感じの主語になる部分も含む、というのがエリクソンの主張です。フロイト流の古典的な精神分析とエリクソンのライフサイクルの漸成説を区別するは、フロイトにおいては、自我が無意識と現実の防衛という、どちらかといえば受け身の役割を主たる任務にするのに対して、エリクソンにおいては、無意識と現実に対して、能動的に無意識と現実を受容して展開する、能動的な役割を主たる任務にしている点です。

 

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