パレーシアステスとパレーシアは貧乏の友人です。
5.パレーシアと義務
パレーシアの最後の性質は、これです。すなわち、「パレーシア」においては、本当のことを話し言葉にすることは、義務と見なされる、ということです。たとえば、本当のことを受け止めることができない人たちに、本当のことを話し言葉にする話し手で、しかも、追放されるかもしれないし、何らかの形で罰せられるかもしれない人は、黙っていることもできます。その人は、誰かから(本当のことを)話すように強要されているのではありません。しかし、その人は、本当のことを話し言葉にすることが義務だ、と感じるのです。逆に、本当のことを話すように強要される場合(たとえば、拷問によって強制されて)、その時には、その人の話はパレーシアの話ではありません。裁判官から、罪の自白を強要されている犯罪者は、「パレーシア」を使っているのではありません。道徳的責任感から、自発的に誰か他の人に罪を自白するならば、その時には、その人はパレーシアの生き方を実行して、自分の過ちに気付かない1人の友人を批判しますし、あるいは、王様に君主としての自覚を促すことは、その都市国家にとって1つの義務である限りでは、そうなのです。「パレーシア」はこのように、自由にも義務にも関係します。
パレーシアは、自発的に本当のことを話し言葉にする点で自由ですし、同時にそうすることは義務でもあるのです。パレーシアは、この二律背反が共存するところが、単なる知識とは異なり、実践哲学ですし、臨床心理学にも通じていることを示しています。
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