≪私の時間≫、それは、≪生きる意味≫に気付き、それを深めて、日々の暮らしに活かすカイロス、恵みの時。
p359下から5行目から。
しかし、イエスの言い伝えに関する私どもの関心に対して、アインシュタインでしたら、どういう風に考えたのでしょうか? 天才が併せ持つ面白いほどの単純さで、アインシュタインは私どもに興味を抱かさることをたくさん言っています(アインシュタイン『理想と意見』)。なぜなら、アインシュタインは、「預言者たちのユダヤ教と、そのユダヤ教を教えたイエス・キリストのキリスト教」を、「人間のあらゆる社会病理を癒す能力」を説く一連の教えと結び付けているからです。しかも、だからこそ、「預言者たちのユダヤ教と、そのユダヤ教を教えたイエス・キリストのキリスト教」は、社会病理に続くあらゆるもの、すなわち、「特に、聖職者たちの社会病理」も癒すことができるものでした。
アインシュタインもユダヤ人。フロムやエリクソン同様、ヨーロッパから逃げてアメリカに渡りました。ユダヤ教やキリスト教が、社会病理、特に聖職者、日本流に言えば、「先生」と呼ばれる人たちの社会病理を癒すことと結びついていたらしい。 これは実に示唆的な内容ですよね。
それは、日本で「先生」と呼ばれる人たちはどういう人たちか?を考えれば、すぐに分かります。それは、政治家であり、医者であり、教員です。しかも、「先生」と呼ばれる人たちとは、「人間を上下2つに分けるウソ」にまみれやすい人びと。そうすると、周囲の人々と、やり取りのある関係ができませんから、そのこと自体も様々な「社会病理」をもたらすことにもなってしまう。このようにして、社会病理の悪循環と世代間伝達へと道が開けてしまいます。
その悪循環の道を断つもの、それがイエスの教えの中身なんですね。
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