2013-09-20 03:38:15 | エリクソンの発達臨床心理
第三章 「『共に見る』ヴィジョン」 第4節 「国家(民族)の1つの夢」はいかがでしたでしょうか?「アメリカ人の夢(アメリカン・ドリーム)」が、それまでの民族間、宗教間の憎悪を乗り越えようとする、人類史で最も有望なヴィジョンだったのにもかかわらず、インディアンの人々と黒人を差別することを、その最初からしていた。「人間を上下2つに分けるウソ」が、いかに、ひとりびとりの無意識に深く入り込み、いかに慣性が高いか思い知らされる感じでしたね。
今日からは、第三章 「『共に見る』ヴィジョン」 第5節 「『共に見る』いろんな悪夢」に入ります。
今日も≪約束≫にお話の続きです。 ≪約束≫は≪やり取りのある関係≫と同義です。
一昨日、2014年9月18日の朝日新聞(12版▲)の17面に、児童養護施設「光の子どもの家」理事長 菅原哲夫さんのインタヴューが載りました。虐待児のケアと、≪約束≫について、良い学びができましたので、このブログでシェアしたいと思います。
まずこの児童養護施設「光の子どもの家」が小舎制の施設であることに特色があります。小舎制と言われても、ピンとこない人も少なくないでしょう。私はもともと知的障害児施設・滝乃川学園の職員ですから分かるんであって、そうでなければ、小舎制・中舎制・大舎制の違いなど分からない。これは1人の居住単位(「寮」とか「ユニット」とか、呼ばれることが多い)に何人の子どもが暮らしているのか? ということです。その人数が少ないほど、一般的な家庭に近く、多ければ、家庭的雰囲気・家庭的配慮とは異なる場になるということです。小舎制はおおむね十名以下と考えて大過ないでしょう。日本の児童養護施設の職員の配置基準(英語では、staff ratio)は、1人の職員に対して子ども5.5人。職員の勤務時間は、労基法上8時間ですから、24時間は基本的3交代。したがって、現実には、1人の職員が16人の子どものケアをすることになります。寮の子どもが20名を超えると、大舎制ですが、日本の配置基準は、大舎制を基本としているといえるでしょう。いま日本の児童養護施設を利用する子どもは、ほぼ例外なく虐待児ですから、日本は、家庭に恵まれず、その育ちが大きく破壊されている子どもたちに、家庭的雰囲気と家庭的配慮からはかけ離れがちな「大舎制でいいや」と言う態度なんですね。憲法13条で
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
と謳われているのにね。
この「光の子どもの家」では、8つの寮で、2-5人の子どもを1人の保育士が育てているというのですね。朝5時半から朝ごはんを作り、学校に子どもを送り出し、学校から帰ってくれば、時には叱り、時には抱きしめ、夜は寝かしつける。家庭の代わりをこの寮付き保育士がしていることが分かります。これはとても8時間労働の枠に収まるものではありませんでしょ。でも、本気で家庭代わりになろうとしたら、それくらいの覚悟が必要ですよね。菅原さんも、「そのくらいの覚悟がない人は、児童養護施設で働こう、などとはおもっちゃいけない」とハッキリ言っています。それを菅原さんは「自発的犠牲」と呼びます。「なるほどなぁ」と思います。
子どもたちが抱える課題は、「なぜ自分はここに来たのか?」と言う不条理だと言います。あるいは「自分はなぜ生まれて来たのか?」と言う根源的な問いだとも。そりゃぁ、そうでしょうね。繰り返し殴られ、タバコの火を押し付けられ、レイプされる毎日。そんな中で「自分はなぜ生まれて来たのか?」と問わずにいる方が不思議。
その問いに一緒に答えをみつけるために、保育士さんたちの「自発的犠牲」がある。なかには、子どもの留学のために虎の子の預金を取り崩して、提供した保育士さんがいるとも。なぜそこまで、できるのか?親でもないのにね。でもね、その方は次のように言ったと言います。「親として当然のことをしただけ」
やり取りのある関係をしていくためには、これほどの覚悟でなくても、「自発的犠牲」を厭わない、≪関係に対する忠実さ≫が必ず必要です。それが、πιστις ピスティスなんですね。
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