神様が支配しているところでは、必ず「やり取り」が生まれます。それ全ては、神様が私どもひとりびとりと、悦んで≪自発的犠牲≫を払ってくださるおかげで、神様と私どもひとりびとりが、「やり取り」のできる関係になれます。その関係から、日々温もりと悦びをいただけるからこそ、私どももお互いに「やり取り」ができる、という仕掛けになってます。
p347第3パラグラフ。
私が理解しているところを、自分の言葉で申し上げるなら、こうです。すなわち、これらの引用から明らかなことは、イエスが語る≪神が支配するところ≫とは、イエスの仲介を受け入れた者なら誰にでも開かれた、≪自己内対話≫であると同時に、≪やり取りのある関係≫でもあるんですね。これまで見てきましたように、ヤーウェの神様が、その存在の本質が能動的な神様である以上、能動的に事を始めることが、人間が≪いまここ≫で生きる、ということの大事な特質だと明らかになります。そのような能動性は、イエスが仲介してくれればこそなんですね。というのも、やり取りのある現実とは、ひとりびとりの≪いまここ≫にあるポテンシャルだとハッキリと話し言葉にする声を伝えることが、イエスの宣教の本質だからです。「神様の指がまさに…」。このようなポテンシャルを理解するための条件が、信頼であることを、これまでも見てきましたでしょ。もちろん、この信頼には、悔い改めも含まれます。しかし、ここでもまた、自分個人の形で、普遍的な原罪があることに気づくのは、個人の決断ですし、もちろんこの普遍的な原罪のおかげで、隣人にも同類の普遍的な可能性があると、気付くことにもなることも意味します。こういったことすべてが物語るのは、≪神が支配するところ≫は、もはや固定的な領土(かつて、そういうことがたとえあったとしても)であったり、あらかじめ決められた時間であったりするものではない、ということです。≪神が支配するところ≫とは、神出鬼没のおとり仕切り、神の再臨、「生きる道」です。≪いまここ≫に、将来の期待が満ち満ちていることです。
≪神が支配するところ≫は、将来の期待がガッチリ詰まった≪いまここ≫を、悦んで生きること、そこには自ずから、やり取りが生じます。将来の期待は、神様との≪自己内対話≫によって、次第次第に明らかなされ、その期待が次第次第に現実になっていることに、はたと気づかされます。それはそれは、嬉しさの限りではないですか。するとね、眼の前にいる子どもと、≪やり取りのある関係≫に自ずからならないはずがありませんでしょ。そうやって、≪神の支配するところ≫は、次から次へと、次第次第に、広がっていくんですね。面白いですよね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます