自分は何者? は超越に結びつくアイヒマン裁判の性質 アイヒマンの裁判の冒頭場面です。 『エルサレムのアイヒマン』Eichmann in Jerusalem の3ページの6行目......
今朝の聖書の言葉は,οἱ πτωχοὶ ホイ・プトーコイ 貧しくされた者たち プトーコイ。本田哲郎神父様が,繰り返し教えてくれるところでしたね。昨日のブログの聖書の言葉と同様,『新約聖書』最初にあるイエス・キリスト物語「マタイによる福音書」5章3節にでてきます。
「3「さいわいなのは霊に貧しい人々、
天国は彼らのものだから。」
実は,この言葉は,雨宮慧先生によれば,昨日の聖書の言葉
「10さいわいなのは義のゆえに迫害される人々、
天国は彼らのものであるから。」
と対になって,コンチェントリック、左右対称になっているのだそうです。
貧乏で,金持ちから意地悪されたり,バカにされたりする人たち。貧乏な人の方が,かえって身軽に人と陽気で楽しい感じでやり取りできる。その時の湧き上がるような喜びですね。そこに「神の国」という,跳び上がるほどの歓びの関係性があります。
ですから,意地悪されようとも,バカにされようとも,それをものともしない,イワンのバカのような,透徹した歓びを貧しくされた者たちは味わうことができるわけですね。
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