イエスはその伝道をガリラヤで始めました。ペテロなどの弟子たちに最初に出会ったのも、ガリラヤでした。イエスにとっても、弟子たちにとっても、心のふるさと、自分の原点は、ガリラヤにこそあったのです。イエスの言葉は、その原点、心のふるさとのありかをハッキリと示してくれていますね。
The Galilean Sayings and the Sense of “I”. The Yale Review. April 1981, p328の第2章から。
4年ぶりの訳し直し。
第2章
私はもう、私が依って立つ全てを含む立場を明らかにしたところです。つまり,その私の立場とは,神様が創造する時には,イエスのガリラヤでの言い伝えが、私どもが,人間に相応しい「≪私≫が生きている実感」と呼ぶものを,繰り返し生み出す,ということなんですね。特に、イエスの言い伝えをどのように見たら、イエスの時代の出口の見えない、歴史的・宗教的な弱さと苦しみを受け容れて仲間にする人格に染み渡った心からの優しさを約束することになるのか,ということなんですね。人類の進化の中で、このガリラヤの時ほど、あるいは、このガリラヤの時以上に、このような生まれ変わりが,あの千年期にあった別の偉大な様々な言い伝え、たとえば、老子の言い伝えや、老子の言い伝えが道教で果たす役割に、意義深い光を投げかけているものはない,のかもしれませんよ。というのも、ついでに申し上げれば、「あの方の支配」、あるいは、「あの方の道」が、英語では「神の国」と呼ばれるものに対して、非常に合点がいく呼び名になっているように思われるからです。実際問題、最初のキリスト者たちは、自分たちのヴィジョンを「キリストの新しい生き方」と呼んだのでした。
エリクソンは、なんでこんなところに着目するのでしょうか? キリスト者でない人はそう思うかもしれませんね。日本のキリスト者は1%もいませんから、ほとんどの人は、「ついてけない」と思うのかもしれません。
この文書の最初に、トーマス・ジェファーソンが、第3代アメリカ合衆国大統領になった時に、ホワイト・ハウスの中で聖書研究をしていたことが記された後、ウィリアム・ジェームズを引用しながら、≪私≫が生きている実感,ということは、分かっているようでわからない、ということが記されていましたね。そう、≪私≫が生きている実感ということは、誰もが知っていることですが、それをハッキリととらえることは、非常に難しい。
キリストの教えは、その≪私≫が生きている実感を,ハッキリ、クッキリとさせてくれるので、エリクソンはこの文書を書いているんですね。それは、「≪いまここ≫で生きる」という、晴れ晴れとしていて、愉快で楽しく、悦びに満ちた生き方そのものですね。
読者のみなさん、いましばらく、この「ガリラヤの言い伝えと≪私≫が生きている実感」の翻訳にお付き合いいただけましたら、次第に,≪私≫が生きている実感,とは何なのか? ハッキリしますよ。そうなれば、あなたも、毎日を、晴れ晴れとして,愉快で楽しく、悦びに満ちて生きることができるし,人や自然に対して,心から優しく関わりを始めることができますよ!
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