世界に対する見方が、
1)リアルな感じ
2)証明可能な事実
3)暮らしを共にしている人々が、(やり取りする中で)明白と見なしている真実
の3つのアスペクトからできていることが分かりました。今日はこの3つアスペクトについて、エリクソンが詳しく教えてくれます。アスペクトとは、「難しいことを易しく」に従うと、「目の付け所」、「見るべきところ」ということでしょうか。
今日は、それに加えて、群れる心理が、ウソと村八分を生み出すからくりの解き明かしです。
ここで強調されている言葉全ては、実際に、ドイツ語のWirklichkeitという言葉に凝縮されています。Wirklichkeitは、フロイトが「リアルに感じること reality」について語る時にはいつでも、使ったり、ほのめかしたりしました。それから、Factualityは、生育歴のどの段階でも、あるいは、科学技術のどんな時代でも、証明可能で測定可能なものとして、知られています。物事と事実(facts)は、あまりにも単純すぎても、あまりにも複雑すぎても、私どもが、物事と事実を、人々と分かち合う世界の秩序の中で位置づけられたものとして認識しない限り、私どもにとって縁のないママです。人々と分かち合う世界の秩序の中では、私どもひとりびとりは、まあ、私どもの中から選ばれた者たちは、一つの中心と、十分なゆとりを手に入れます。つぎに、Actualityは、ひとりびとりの人が、お互いにやり取りをすることですが、そのやり取りは、事実(facts)をコントロールしあうためですし、リアルに感じること(reality)を分かち合い、お互いに確かめ合うためなのです。なぜならば、factualityとactualityにおいて、この2つの重しがないと、リアルに感じること(reality)は、すぐに幻想やもっと悪いものへとフワフワ浮きあがってしまうからです。それで、真実という永遠の感じは、証明可能で測定可能な事実(the factual)、リアルに感じること(the real)、やり取りする中で、相手と分かち合い、確認し合い、コントロール出来る日常生活(the actual)の3つを混ぜ合わせたものなのです。同様に、本物の「陽気で明るいこと」も、この3つを混ぜ合わせたものなのです。しかしながら、この3つの重しは、人類の進化の歴史という流砂に中に留まることは、危なっかしいと思われることが多いのです。人が敵対する政治的単位に分かれたように思われるところでは、まさに、危ういのです。それでもし、私どもは、アインシュタインが、アーリア人が優越する千年大国というヒットラーの幻想の中で働いていたことを思い出せば、私どもが結論を下すことができる唯一のことは、群れる心理は、どこででも、村八分を生み出す、ウソの現実へと傾く心の構えを大なり小なりコッソリ隠しがちである、ということです。その心の構えは、自分が歴史に登場する時を待っているのです。
哲学の認識論、「世界はどのように知ることができるのか?」、に関する議論ですので、「ちょっとついていけないな」と思われた方があるかもしれませんね。でも、心配ご無用です。
現実には3つのアスペクトがあるけれども、現実が、進化の歴史の中に位置づけられ、人が現実を知ろうとする際に、群れる心理が前面に出る時には、村八分を生み出す、ウソの現実へ傾く心の構えができることを防ぐことが難しくなる。ここも決定的に重要なところでしょう。排他性と、群れる心理は結びついているわけですね。
それでは、私どもは、なぜ、群れたがるのでしょうか?また、群れずに、一人で(単独者で)いるためには、私どもはどうすればいいのでしょうか?
一言申し上げれば、「人は『一人ではない』と感じる時だけ、安心して、一人でいることができる」ということです。ついでに申し上げれば、「人は、一人でいることができる時だけ、本当の自分である<私>と向かい合い、<私>を掘り下げ、育むことができる」ということです。さらに申し上げれば、「人は<私>(これが、「心の中の子ども」でもあります)と向かい合い、掘り下げる時だけ、<私>が分裂せず、まとまりがあり(whole)、健全で(healthy)、信頼感が揺るがない(holy)アイデンティティ形成が可能になる」のです。実に不思議なことですね。
もう一言言いたいのですが、後の楽しみに致します。
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