エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

陽気で楽しい、というスピリッツ

2013-07-05 03:13:09 | エリクソンの発達臨床心理

 

 現実には3つのアスペクトがあるけれども、現実が流砂のような進化の過程の中に置かれて、しかも、人の群れる心理に取り込まれると、ウソと村八分が始まってしまう、という、やや難しく、ゾッとするほど怖いお話でした。

 今日は「陽気で楽しい」スピリッツの「アンビバレントな」側面についてです。

 

 

 

 

 それで、陽気で楽しいことが生育歴のなかで育まれることを素描する時、私どもは、大人の暮らしにある全うな遊びが、ゲームや、「一つのお芝居をバラバラに演じてばかりいる日常生活の中の、つかの間の世界」で起こる儀式である、という類の理屈を乗り越えたいと思います。つまり、大人の遊びといえば、おもちゃ台、遊び場、劇場の舞台、チェス盤、競技場、あるいは、実際に、群衆の神話を反映している高度な儀式である、という理屈です。いやそれどころか、陽気で楽しい、というスピリッツは、物を見る際の心の構えに広く浸透していて、その心の構えが全く実用的な人の活動やその結果と結びついている場合があるのです。それは、このような心の構えが、全くの暗黙であっても、実際、面白いたとえ(例えば、鉄のカーテンに、竹のカーテン、ドミノセオリーを考えて頂きたい)を使っていても、変わりがありません。この面白いたとえの故に、新たに現れた複雑なことも、納得し過ぎてしまいますし、一般の人たちが、通過儀礼とまでは申し上げませんが、「実際的な」青写真や、「戦略的な」シナリオや、「客観的な」理論を受け容れることにもなってしまいます。

 

 

 

 

 ありふれた生活の中で夢芝居の合間でする、お慰みの遊びにだけ、「陽気で楽しい」ことがあるのではないのです。それどころではなくて、“ものを見る”、ということ日々刻々のこと全般に、「陽気で楽しい」のスピリッツが相渉って影響して、日常生活と切っても切れない、ものを見る際の心の構えに浸透していることが、明確です。それはまるで、通過儀礼のように、複雑なことも簡単に信じ込み、現実を歪めて捉えることに、残念ながら、役立ってしまっているのです。

 でも「陽気で楽しい」のスピリットが、現実を歪めてしまうのは、いったい何故なんでしょうか?

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