ルターは魂まで自由になれたのでしたから、それまで苦しんでいた便秘や閉尿からも自由になれました。
Young Man Luther 『青年ルター』p205の第2パラグラフ、下から10行目途中から。
身体の働きが示す気持ちを私どもが認められるのは、お笑い番組の中か、あるいは、自分が不快に思うことを笑い飛ばすことができる状況でなら、可能でしょうけれども、それを恥に感じてしまうのは、身体が示す気持ちを真面目に認めろと言われるときでしょう。そうなると、身体が示す気持ちは、偉そうに話そうとしますよね。それはまるで、ずっと以前の話みたいにね。しかし、ここでは、ずっと我慢してきた意味が、理性的ではない心の鎧の中で、姿を現します。というのも、、そんな気持ちはありません、ということと一緒になって、私どもが置き去りにしていることは、無意識的には、ウンチとオシッコに関係します。聖パウロは、それまでキリストにとって「ウンコ」と言って捨ててきたことを、輝く光としたのです。
抑え込んでした時には、けがれたウンコやおしっこでもね、それを白日の下に出すときには、光 になります。
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