理性の人、ピアジェ先生、あなたも、ですか?
イナイ・イナイ・バーのように、一度見失ったものを再び見つけ出す、赤ちゃんとお母さんの間で行われる、この日々の関わり合いが、最初の意味あるやり取りとなります。そのやり取りを通して、...
ピアジェ先生のような、「理性の人」でさえ、赤ちゃんと母親の関わりの世界を描くとき、「滅び」と「復活」という実存的な言葉を使わざるを得ない。エリクソンは今日の文章の中でそのように言っています。そして、エリクソンは、それを最大限に利用します。「滅び」と「復活」という言葉で描かれることは、人間の魂の求めに対して根源的だ、ともエリクソンは言います。それじゃあ、その「魂の求め」とはいったい何なのか? それは一般的な言い方をした時の「将来の見通し」とどの点で同じで、どこが違うのか?
子どもの遊びを考えるときに、以前にも記しました通り、一度見失って、それを見つけ出す、ロスト・アンド・ファウンド・ゲームスにはたくさんのものがあります。イナイ・イナイ・バーが元型ですが、それにはさまざまなヴァリエーションがあります。名前があって、皆さんもよくご存じの遊びをあげれば、「かくれんぼ」、「だるまさんが転んだ」、「鬼ごっこ」など様々あります。その名前のある遊びも一様ではなくて、一つ一つの遊びに、様々なヴァリエーションがあることは、皆さんもお分かりだろうと思います。そして、このロスト・アンド・ファウンド・ゲームスの「ロスト lost」が「滅び」であり、「ファウンド found」が「復活」であることにも、お気づきだろうと思います。子どもは、実に多くの「滅び」と「復活」の遊びを、何年間も繰り返して遊んでいることが分かります。それは、「滅び」を体験しても、「滅び」のままで終わるのではなく、そこに必ず「復活」が続くことを体験することが、非常に大事なことを、私どもは学び取ることができるのではないでしょうか?
「魂の求め」も、このことと関係するのでしょう。すなわち、ことは「滅び」で終わらず、必ず「復活」がある、とする体験です。実存的であると同時に、スピリチュアルでもあります。人間は、小さな「滅び」、たとえば、お財布を落としただけで、どれ程がっかりし、心の安定までもが失われた経験が、一度や二度は、皆さんあるのではないですか? そして、見つかった時の安堵感、喜び。お財布でさえこうですから、なくしたものが、自分の大事な家族であったり、自分の体の一部や能力であったりしたら、心の動揺もなおさせでしょう。そして、お財布よりもはるかに大事なものごとの場合、それはそのまま手元に戻ることは少ないのではないでしょうか? その意味では「復活」は、手元にモノが戻る以上でなくてはなりません。
それはなくしたことに、「新しい意味」、「今まで気づかなかった大事な意味」を再発見することではないでしょうか? そして、その「意味の発見」がまさしく「復活」に相当する。「魂の求め」とは、したがって、「意味の発見」であり、「滅び」にも「意味を認める」(レコグナイズ recognize)展望、見通し、希望が持てる、ということではないでしょうか? 水平線に消えて「滅んだ」太陽が、暗闇を体験した後に、朝日として再び「復活」すること、それを毎日私どもが経験していることも、この希望を再確認(レコグナイズ recognize)するための、日々の練習そのものなのでしょう。
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