幼い時分に、自分の弱さや道徳的な敏感さにつけ込まれてきた大人は、「正しいこと」をやってるフリして、口裏合わせてコッソリ悪だくみをやるパターンに陥りがちです。誰かに心底復讐したいんですね。
今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.263の、第2パラグラフ5行目途中から。
もちろん、宗教家も、悪と戦っている時でさえ、自分はダメだぁという悪の感じに支配されていますから、悪は人間の「本性」の属すものであるばかりか、神様のご計画にも属すものですし、神様が人間に恵まれた恵みでさえある、と考えます。この仮定に対する答えは、子どものしつけのやり方も、根源的不信感、恥、疑い、自分を責める気持ちにつけ込む点で様々なのは、宗教も同様にいろいろなのと同じだ、ということです。困ったことが生じるのは、まず、本能の力が暴走するのは、悪い良心が支配ではない場合だ、という道徳的な恐怖からですし、その次は、人間にとって最高のものは否定的な道徳だとハッキリと主張する試みが、融通の利かない制度によってがんじがらめになって仕舞うことからくるわけです。
子どものしつけのやり方が、根源的不信感、恥、疑い、自分を責める気持ちにつけ込むのかどうかは、様々だと言います。付け込むのは悪い良心の大人です。付け込んだりしないで関わろうとするのが、良い良心の大人です。
子どもにとって、特に、発達トラウマの子どもにとっては、根源的不信感、恥、疑い、自分を責める気持ちにつけ込む、悪い良心の大人は、善人面の仮面をかぶっていても、悪魔でしょう。しかし、根源的不信感、恥、疑い、自分を責める気持ちにつけ込むことを避ける、良い良心の大人は、伴走者であり、メンターです。
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