エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

現実とのやり取りを失ったウソ

2013-05-24 05:29:35 | エリクソンの発達臨床心理
 権力者の嘘に対して抱く国民の気持ちと、親の嘘に対して子どもが抱く気持ちが、おんなじものであることが分かりました。今日はより具体的に、報道の中身が語られます。それでは翻訳です。





 2つか3つ、多様だが代表的な実例を、私が当時読んでいたものから引用してみましょう。まずは、「合法的」な段階のものから始めましょう。アーチボルド・マクリーシュの(ミュージカル)『スクラッチ』に対する、ウォルター・ケーレの評論は、「しかし、私どもは信仰を失ってしまった」とキャプションが付けられました。ケーレは、舞台中央の揺れる馬に注目して、静かに思いを巡らします。

マクリーシュ氏のリズムは、かつて私たちのリズムもそうだったが、(私たちの目の前で、しかも私たちの耳には驚いたことに)揺れる馬のリズムとなった。眠気をそそる音楽を、私たちはどこかに置き去りにして、抑揚は、私たちの確信と共に、眠りに落ちた。

 私どもが、「戦争という劇場」のような、劇場になぞらえて、初めて申し上げることになることに取り掛かるために、コラムニストの中には、似たような絶望的な言葉を口にする人もいました。つまりそれは、脚本(大まかな筋書き)がその意味を、ゲームがその論理を、楽しみがその精神を失ってしまった、ということです。それは、ペンタゴン・ペーパーの時期でした。ハンナ・アーレントは、核心を突いた記事の中で、国民に対してなされた政府の嘘が、その嘘をついた本人の自己欺瞞であることをあまり強調しませんでした。彼女が疑ったのは、現代の政治では、嘘をつく者は、はたして自己欺瞞から始まるのか、ということです。ですから、「役者たち自身が、自分たちが隠していることや自分たちが嘘を言っていることの背後にある真実を、もはや知らないし、自覚している訳でもない」、そのようにして、「現実とのやり取りを失ってしまっているので、事実、シナリオも観客も劇場から借りてきている」のです。実際、ペンタゴン・ペーパーからの直接の引用が示すのは、自己欺瞞的な問題解決者は、まったく同じ時に、内外の反対陣営の関係のある観客に媚を売ろうと努力した、ということです。その反対陣営とは、「共産主義者(強い圧力を感じていたに違いない)、南ベトナム(その士気は上がったに違いない)、我々の同盟国(私たちを保険者として信頼したに違いない)、それからアメリカ国民(リスクの負担を、自分たちの生命と名声と共に、維持しなければならない)です。




 ここでも、権力者の嘘は、親の嘘に似ています権力者の嘘は、現実とのやり取りを失ってしまっているので、自分が嘘を言っていることに無自覚であるように、親の嘘も、現実とのやり取りを失ってしまっているので、自分が嘘を言っていることに無自覚な場合があります。言葉を換えれば、権力者も親も無意識に嘘を言っていて、無意識に偽り(嘘の)の役割を演じている場合がよくあります。この場合、言っている事とやっている事に自覚がなく、無意識である点で、猛烈な慣性と、変化に対する猛烈な抵抗があります。言っている事とやっている事に自覚がなく、無意識であることが、たとえ、国民と子ども達を根底から傷つけるものであっても、いつまでも続くかのように、嘘と偽りの役割を続けていられるのも、そのことに無自覚であり、無意識であるがゆえなのです
 本日はここまでにいたします。
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