エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

権力者のウソ

2013-05-23 02:17:45 | エリクソンの発達臨床心理
 ウソとフリが、マックス・ウェーバーの「精神なき専門人、心情なき享楽人」を彷彿とさせるものであることが分かりました。つまり、自由と喜びのある生活ができない生き方だと言わなくてはなりません。
 今日は、当時のアメリカ人の大衆の意識にある一つの傾向が取り上げられます。それでは翻訳です。




 この序説では、大衆の意識にある一つの傾向に集中してみましょう。その大衆の意識傾向とは、最近の国家的危機の中で特にハッキリしてきたように思われる傾向です。すなわち、政府高官たちのお芝居に対する一般的な疑惑ですし、伝統的国家の具体的行動予定(台本)とは相いれない嘘くさい、権力者の大まかな筋書き(脚本)に対する疑惑です。このイメージは、この講演の準備をする内に気付いたのですが、日刊紙の、ある種の秩序を反映していました。私はハーバード大学を退職して以来、折に触れて日曜版の新聞各誌を本当に何とかフォローできました。そうする中で実によく分かったことですが、遊びとなぜか関係するテーマが、ひどい嘘のあらゆる意味で、想像上で振りをすることのあらゆる意味に加えて、当時のニュース解説者の雰囲気を特徴づけていた、ということです。それはまるで、楽しい行動の自由が失われることに対して、みんなが悲しんでいるかのようでしたし、お芝居を、嘘をつくために用いていることに対して、みんなが底知れず怒っているようでもありました。さらには、ある種の斬新な「ビジョン」に対して、みんなが、漠然とではあっても、郷愁を抱いているかのようでもありました。いまや、明らかだと思いますが、ある年の日刊紙から何を引用しても、それはたちまち時代遅れと思われます。しかし、日刊紙からのその引用が、もしかしたら、ある種の根強い長期的な傾向を示しているかもしれません。有史以前から今まで、才能のあるニュース解説者なら、現実と現実ではないこと、合理性と狂気、信じられることと半信半疑と嘘、なかんずく、具体的行動予定(台本)と大まかな筋書き(脚本)、そのそれぞれに同程度に、心奪われていたのかな、と思っても仕方ありません。アメリカン・ドリームは、ある人々が主張するように、今や悪夢となりました。信ぴょう性は、言っていることと現実のギャップどころではなく、その間の「深い溝」によって脅かされてきたと言われます。つまりそれは、政府の嘘が、たまにつく嘘では毛頭なく、すべての人の足元をすくう流砂のように、広がっているように感じられた、ということです。




 権力者の嘘は、親の嘘に似ています。国民に対して政府が権力者であるように、子どもに対して親が権力者である場合があるからです。エリクソンは、そのことを言いたくて、ながながと、当時の権力者の嘘を記したのだと思います。しかも、権力者が国民に対する奉仕者であることを止めて、権力者として国民に対して振る舞う時に、国民が感じる、悲しみ、(激しい)怒り、郷愁は、親が慈愛に満ちた奉仕者であることを止めて、権力者として子どもに対して振る舞う時に、子どもが感じる、悲しみ、(激しい)怒り、郷愁と同じです

 本日はこんなところで失礼します。
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