≪生きることを豊かにしてくれる1人の時間≫、ソリチュードは、私どもが、ウソとゴマカシのない、人間らしい暮らしをするうえで、欠くことのできない、究極にして、必定の時間なんですね 。
p332の3行目から。
イエスと弟子たちがユダヤにやってきた時、彼らはとってももろい状態で、ふいに田舎まで来たのでした。本当に、彼らを(危険になるかもしれない)よそ者と見なすこともできました。なぜなら、ガリラヤ人の名は、ユダヤにおけるもっぱらユダヤの住民の中では、実際「よそ者のガリラヤ人」でしたから、その「北国」のアラム語を喋れば、からかわれますし、武装した熱心党がガリラヤ人に相当混じっていたので、ガリラヤ人は、ローマ人にもユダヤ人にも同様に、オッカナイ存在と受け止められていたのでした。ユダヤで優勢な事実の1つは、ローマ、つまり、占領軍の代理人たちと、神殿のユダヤ人のお役人たちの間の危うい取引でした。その取引とは、エルサレㇺが、神殿の守り手であり、宗教的な王国の犠牲の中心地の守り手であり、人民の中心的な地理的照会先の守り手に、この先ずっと安全にいられるための取引でした。ユダヤ人の大部分は、すでに、広範囲に広がった「ディアスボラ、四散した民」の飛び地の中で暮らしており、それは、ローマやアレクサンドリアメソポタミアにまで及んでいました。
ガリラヤ人は、すでにユダヤの地では、よそ者であり、用心しなくちゃならない人だったんですね。イエスと弟子たちも、ちょっと冷たい視線を感じて、ユダヤの地に入ったはずです。しかも、そこは、占領軍と宗教的特権階級が政治的取引をして、小康を保っているような地域でした。
そんなところで、果たしてどうやって、人の心に染み入るような言葉を伝えることができたのでしょうか? イエスの伝道そのものが、「奇跡的」だったことが、ここからも分かります。
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