他者の「声なき声」に応えるためには、日ごろから自分自身の「声なき声」である、静かな小さい声に聴き従っていることが必要です。今日はp27 L4から。
「一人の人を個として認めること」は、「相手の人を良く見て忘れずにいること」なしには、ありえません。「弱い立場の人を労わること」と「弱い立場の人の声にならない声に応えること」は、「弱い立場のを良く見て忘れないこと」がなければ、その方向性を見失ってしまいます。「弱い立場の人を良く見て忘れないこと」は、相手に対する配慮がなければ、空っぽです。「弱い立場の人を良く見て忘れないこと」は、(バームクーヘンのように)重層的にできてます。≪真の関係≫における「弱い立場の人を良く見て忘れないこと」は、周辺にあるものではなく、核心的なことです。「弱い立場の人を良く見て忘れない」でいることを実際に出来るのは、私が自分自身のことはいったん脇に置いといて、その相手を『その人ならでは』の存在と見るときだけです。たとえば、一人の人が腹を立てて、それを表に出さずにいるとします。その人が怒っていることに私が気付いたとしても、それ以上にその相手のことが分かる場合が実際ありますね。その時、私はその相手の人が不安を感じたり、心配になったり、寂しいと感じたり、自分が悪かったと感じたりしていると分かるかもしれませんね。こうして、その相手の人の怒りは、「もっと深い気持ちがホントはあるんですよ」ということを示しているだけだ、と分かって、その相手の人が不安を抱き、恥じ入っていると分かるんです。つまり、その人は、怒っている人ではなくって、重荷を負って苦戦している人なのですね。
今日のフロムも、具体的な場面が眼に浮かびますね。フロムが臨床をどの程度していたのかは分かりません。しかし、今日の所などを読めば、日常生活を、まるで詩人か、あるいは、臨床心理士のような眼で見つめていたことだけは、ハッキリわかりますよ。
怒っている子ども、お友達のことを打つ子どもを前にするとき、普通私どもはどうしますか? 叱りつけるか、罰(×)を与えるのが関の山でしょう。日本の学校でしたら、かならず、「生徒指導」の対象です。その子どもに、フロムがしたように、不安や心配、一人ぼっちの寂しさや自分を責めている気持ちを察する人がどれだけいるでしょうか? しかし、心理臨床を生業とする私どもは、そこが腕の見せ所。しかし、うまくいく時ばかりではありません。分からないことも多いのが、実際です。
それでも、子どもが一見「悪く」見えるときにも、そこに「何か良いもの」、「何か大事なもの」があるはずだ、と、『その子ならでは』を探すことだけは、できますね。今回フロムが指摘しているのは、いつでも、その正解をすぐに見つけることではなくって、“ 子どもを、そのような「良く見る」視点を持って、結論をすぐには出さずに待つ態度 ” の大切さを指摘している、と考えて大過ないでしょう。
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