赤ちゃんは、生まれた家族に独特の色に、馴染んでいかなくてはなりません。しかし、家族が持っている色は、文字通り、いろいろなのです。その色は、その赤ちゃんの生き方を無意識裏に決定します。何故か? それは、その色には、自分に対する見方、相手(他者)に対する見方、そして、自分と相手に対する見方が、無意識裏に含まれているからなのです。しかし、この3つの見方は、それぞれ強調点が異なるだけで、1つの見方、自分と相手の見方なのです。ただ、角度を変えてみただけです。この自分と相手がセットのなった見方の中に、無意識裏に「人間を上下2つに分けるウソ」という偏見が入り込んでしまうのです。通常、家族が持つ色がいろいろなのは、このウソ・偏見が非常に強い~あまり強くない、の範囲で違いがある、ということです。家族の色には、「人間を上下2つに分けるウソ」という偏見が大なり小なりある、というのが真実でしょう。
しかも、このウソ・偏見には、猛烈な慣性があります から、ほっておいたら、赤ちゃんは一生、このウソ・偏見を信じたまま、おじいさん・お婆さんになって、そして、死んでいくのです。その間に、このウソ・偏見は、その赤ちゃんが大人になってから、授かった赤ちゃんにまた、おんなじウソ・偏見を引き継いでいってしまうのです。このウソ・偏見は世代を超えて、継承されてしまうのです。
このウソ・偏見を取り除き、デトックス(解毒)するためには、 “本物の教育“ 、心理的支援が必要です。残念ながら、教科教育と、30年か40年前に決まった行事と「生徒指導」を、ただただ繰り返している、いま日本の学校教育では、対応できないのが普通です。“本物の教育“、ないしは、心理的支援が必要です。
世間に対するいくつかの見方、および、礼拝の問題と、『子どもの頃と人間関係』(みすず書房版では『幼児期と社会』上・下巻)の中で最初に関連付けた人類学のちょっとした情報とを、結び付けてみましょう。なぜなら、私どもが最初に理解しておかなくてはならないのは、礼拝とは、日常生活に対する一つの見方(aspect)である、ということだからです。この日常生活の見方は、別の文化、別の社会階層、別の家族にでも触れた方が、自分の文化、自分の社会階層、自分の家族の中にいる時よりも、より鮮明に見えます。実際、自分の文化、社会階層、家族の中だと、礼拝は、単に正しい振る舞い方、としてしか経験されない場合が多いのです。疑問なのは、何故、みんなが私どものやり方をしないのか? ということです。私は、確信していることですが、人類学者の人たち全て(なかには、玄人もいれば、アマもいます)と、同じ不思議を感じます。それはつまり、その地域の古老に出会うと、その古老は、「昔は、おいらのあたりじゃ、こうするのが当たり前のことだったのよ」と優しく教えてくれることです。そして、その古老は、道徳的に正しいことや美的に良いことを、こまごまと紹介してくれるのですが、その道徳的に正しいことや美的に良いことは、まぎれもなく、天から「良し」と認められていることなのです。次にご紹介するのは、ファニーという名のユーロック族のシャーマンが、北カリフォルニアのユーロック・インディアンの人たちのあいだで普通と見なされる食事の仕方を、私に教えてくれたことです。ユーロック・インディアンの人たちは、サケとサケが繁殖し回遊する、なかなか分かりにくい生態(長い間、科学には分からなかった)を生活基盤にしていました。厳格な序列が維持されていました。「ななつ」になった子どもは、あらかじめ決められた方法で、食事を摂るように教えられます。その子どもは、スプーンに少しだけ食べ物を取り、そのスプーンを口までゆっくり持ち上げて、食べ物を噛んでいる間は、スプーンを下に下ろさなければなりません。しかも、特に、その子どもは、食べ物を味わい、呑込んでいる間は、自分がお金持ちになっていることを想像しなくてはならないのです。みんなは、食事の間は話をしません。だからこそ、みんなは貝のお金とサケに自分の考えを保ち、集中することが出来たのです。このような礼拝は、一定の過去をよく見る必要性を、ある種の口伝えの幻覚のレベルにまで引き上げたのです。この一定の過去をよく見る必要性は、生涯を通して深まり、礼拝を執り行う度に、厳かに強まったのです。
ユーロックの人々の「正しい」食べ方を紹介して、礼拝がどういうものかをエリクソンは説明してくれています。これが、ユーロック・インディアンの人々にとって、道徳的に「正しいこと」であり、美的に「良いこと」である訳です。しかし、これは、エリクソンにとっても、私ども日本人にとっても、必ずしも道徳的に「正しいこと」でも、美的に「良いこと」でもありません。
エリクソンが言うように、自分の文化、自分の社会階層、自分の家族の中にいては、礼拝は見えにくいので、敢えてここで、ユーロック・インディアンの人たちの「正しい」振る舞い方を紹介することによって、私ども読者の文化・社会階層・家族の儀式化を意識化してもらおうと、エリクソンは考えたに違いありません。
でも、礼拝は、一定の過去をよく見る必要性を、ある種の口伝の幻想のレベルまで引き上げなくてはならないのは、何故なのでしょうか?
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