エリクソンは、日常生活を礼拝にすることは、日常生活に対する1つの見方であり、通常、正しい振る舞い方としてしか、経験されない、と言います。日常生活を礼拝にすることは、当たり前すぎることなので、意識せずにいることがどうしても多くなるわけです。
それにしてしも、その礼拝にすることが、過去をよく見ることを、ある種の口伝の幻想のレベルまで引き上げるのは、いったい何故なんでしょうか?
私どもが、人生のごくごく初めに、食べることやら、見ることやら、あるいは、望むことやら、信じることやらについて、これまで述べてきたように、よくよく観察してきたおかげて、このような礼拝にすることは、個人の発達の良い基盤となりました。ただし、それは、昔ながらの文化圏の人々が「意味」の舞台(段階)と呼ぶ舞台(段階)では、そこの子どもは、行動の象徴的意味を理解することが期待されますし、森羅万象の不思議を世間の人はどう見るか、ということに対して、1つの見方をする文化圏のメンバーになるために、行動に縛りがあることや、先延ばしにされる行動があることを受け容れるように期待されます。その後、ユーロック・インディアンの男たちの「スウェットハウス(蒸し風呂小屋)」の中で、青年になれば、ユーロック・インディアンの少年は、お金のことを考えると同時に、女のことは考えない、という二重の芸当を身に着けることでしょう。大人になれば、ユーロック・インディアンの人は、まぶたの裏側に、木々からぶら下がっているお金や、時季外れの川を泳ぐサケが、見えるようになるでしょう。それは、ユーロック・インディアンの人は、この自分でこしらえた「幻覚」のような思いが、大海原の向こう側におられる、ユーロック・インディアンの神々の心と一体になる、と信じているからなのです。この神々は、その年にそこに遡上するサケの供給を抑え込んだり、気前よくサケをそこに送り届けたりする力があります。神々がこのような力を発揮されるのは、サケが年に一度河口に遡上し、圧倒的な勢いで、待ちわびている人間たちが仕掛けた網やダムに飛び込んでくる、その最中のことなのです。
ユーロック・インディアンの人々の日常生活を礼拝にすることは、ユーロック・インディアンの神々と一体になる信頼に基づいていることが示されました。その神々は、ユーロック・インディアンの人々に、良いものをくださる存在(Providers)です。
日本人に日常生活を礼拝にするが希薄なのは、日本人が信頼するものを見失っているからなのでしょうか? それとも、日本人は八百万の神を信じているからなのでしょうか? あるいは、日本人は、お金以外は信じられないからなのでしょうか?
いいえ、今の日本には、合理的な考え方も非常に弱いのですが、中村雄二郎がいう「神話の知」 、すなわち、「不思議な感じ a sense of wonder」を感じ取り、その不思議を用いて<私>の物語を創造する力が、あまりにも弱いからだ、と感じます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます