エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#大人になる階段 #本物の大人 と #お子ちゃま

2018-09-25 05:36:44 | エリクソンの発達臨床心理





 Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 P.107,第2パラグラフの7行目途中から。ここ数日分も,ご一緒に。





 青年期と理想:

 本当の自分と真実



 子ども時代の終わりに,自分自身で見通す「自分がやるべき役割(ミッション)」は,条件さえ良ければ,全ての役割の中で一番確かな役割になります。というのも,ミッションのおかげで,様々な技術の点で,私どもは確かにされますし,私どもは,目に見える仕事の中で,生きがい感を(自分には値打ちがある,と)体感することができます。しかし,思春期は不安定ですし,子ども時代を卒業しなくてはなりませんし,また,時代も不安定ですから,様々にぶつかり合う自己イメージが生まれてきます。それは,私どもは労働者としての顔があるだけではなくて,パートナーとしての顔,親としての顔,市民としての顔も心の中に備えておかなくてはなりませんし,自分はまるで機械がうまく動くため,効率よく役割を熟す為に犠牲にされている,と感じることもある時代と同じです。私の他の本で何とか申し上げたことを手短に申し上げますと,聖書の神様と一心同体になる道は,子ども等が,子ども時代に終わりに,自分自身にとっての意味と,自分にとって大切な人にとっての意味と感じられることが,やり取りがあってピッタリと一心同体になっているのか,次第です。若者が退行しがちなのは,心の中で遊んでいるあの子どもに触れる中で不動にされるためですし,若者が「不登校に(会社に行かなく)」なりがちなのはも,時の中で力を得るためです。あるいは,包括的な様々な哲学的なヴィジョンを掴み取るため,という場合もあります。包括的な様々な哲学的なヴィジョンが人々を強烈に束ねるのは,生きている実感を肯定するヌミニースの原理,生きている実感を話し言葉にする原理,生きている実感に則って遊ぶ原理,生きている実感を正しい生き方にする原理を束ねる,非常に分かりやすいけれども,人の気持ちを省みないことが多い答えで,しかも,自分が思い煩っているこをすべてを,他人のせいにする答えでもある場合です。

 ここから,2つの生き方が続きます。かたや,いつも驚きがあり,時として,ショックな場合もある,「歓んで生きる意志から生まれ,歓んで生きる意志を繰り返し育む」「日常生活の礼拝」を,バラバラにすることもできます。その礼拝がバラバラにすれば,青年はお互いの関係を日々礼拝にするもできませんし,持つ立場の大人からも,待たない子どもからを(少し,あるいは,悪い良心と戦って),自分の世代を区別することも,出来ません。かたや,「日常生活を礼拝にする様々な,天晴な礼拝と,そういう礼拝から生まれる,様々な天晴な習慣」を身に着けることができます。というのも,生きている実感を法則にして,日常生活の礼拝で,天晴れな人生の習慣を身に付けるからこそ,聖書の神様から,とても良いと共に徹底的に肯定されて,不動にされ,神様の恵みにさらに恵まれ,独立していられる人物になれます。この様な人物に青年がなりますと、自分たちの仲間(人間を上下2つに分けるウソから生まれた、上に立つ自分たちの仲間)の求めに,心から応えられますし,仲間内でエリートにもなれます。その時にだけ,青年は大人になる階段に入れます。大人になるとは,未来を眼に見える様に出来る,ということですね。その未来で,本物の大人は,子ども達の生活の中で,日常生活を礼拝にする礼拝の司式をする者になるのですし,おそらくは,子ども達の生活の中で,日常生活を礼拝にするのに相応しい場が良く良く見分けることが出来る,ということです。





 本物の大人は,子どもが発達して心からの自由な大人になれる様に,日常生活を礼拝にする礼拝の場を上手に見つけることが出来ます。子どもの日常生活を礼拝にする場が見つけることが出来ない人は,幾つになっても,お子ちゃまですよ。
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