自分の≪感じ≫を大事にすることです。その≪感じ≫は微妙なものですから、静かにしていないと、気が付きません。気が付いても、どういう意味があるのかが分かりません。その≪感じ≫に気付く時間は、瞑想、メディテーションそのものですね。
Young Man Luther 『青年ルター』p.217の第2パラグラフから。
全くの的外れとそこから完全に解放されることについて、いつの時代でもある、とルターが言い直していることは、筋の通らない話だと容易に分かります。このいい直しは、意地悪に、マルティンが傷つきたくなかったからだと解釈できるかもしれません。つまり、マルティンは霊的に高揚し、呪いのような憂鬱も高まると、権力と復讐心、女性と食糧とビールに対する欲望も高まるという欠点です。しかし、こういった二律背反が一緒に存在することは、心の理屈がある訳ですね。こういった二律背反が、実際には両立などできないことに対する激しい怒りにも、同様に心の理屈があります。マルティンの神学上の改革が意味するものは、心の事実です。つまり、自我が「実際に」力を得て、しかも、「気持ちの中でも」ある程度力を得れば、いろんな衝動のあらゆる力と良心のあらゆる力を同時に受け入れることができた、ということです。
あらゆる衝動と、あらゆる「悪い良心」の力を受け止めるだけの力を、実際自我が手にいることができたら、こんな素晴らしいことはありませんね。名声や地位や財産を手に入れることも良いことでしょう。権力や異性や食糧やビールを手にするのも、それは素敵なことでしよう。しかし、そんなものに比べたら、衝動と悪い良心をコントロールする自我の力を手の入れた方が、遥かに人を幸せにすることを、エリクソンはよくよく知っていたはずですね。私も心理臨床家の端くれとして、100パーセント支持したいと思います。
この自我の力を得たものは、ジタバタすることなく、静かな目的のために日々を、淡々と生きることができるでしょうね。
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