私はもともと泣き虫でした。怖がりでもありました。特に暗いところがダメでしたね。オバケが出るかもしれない、と思っていたからです。おばけは実は、自分の心の中にいたんですけどね。
今日は勇気のことを記したいと思います。泣き虫で怖がりですから、私は勇気がありません。でも、それにもかかわらず、勇気を持ちたいと願って、生きています。ですから、狂気のアベシンちゃんには、ハッキリ「NO」と言いたいし、何度でも「NO」と言います。
大学でジャーナリズムを講じている友人がいます。その彼が現政権、アベシンちゃんに「NO」と言えない。彼の話を直接聞いたわけじゃぁない。いろんな話を聴いてきましたから、ある種の絶望と不信があるのかもしれないし、もともと「NO」と言いずらい感じがあるのも分かる。でもね、権力を批判しないジャーナリズムは、お米を置いてない「米屋」と同じ。いくら小麦や雑穀を置いて、それが美味しいものであっても、お米を置いてなければ、「米屋」とは呼べないでしょ。権力を批判しないジャーナリズムが、もうジャーナリズムではないことを、当然彼も知っている。それでも「NO」と言いずらい…。
それで、私も「勇気」のことを改めて考えてみようと思った訳ですね。
「勇気」と言ったら、Paul Tillich パウル・ティリッヒ の The Courage to Be 『生きる勇気』を思い出します。ティリッヒは、この本の中で、ルターの勇気を取り上げています。ルターは、当時も絶大な権力者であったローマカトリックに「NO」と言った訳ですから、格別な勇気がありましたね。でも、ルターはもともと、それはそれは、激しいくらい厳しい父親に育てられた。ですから、厳しいお父さんに及第点がもらえるか、いつだって、心配だった。じゃぁ、なんでそんな心配症のルターが、あんなに勇気が出たのでしょうか?
心配性にもかかわらず、「勇気」が出た。ルターはもちろん、神様と出会うことで、心配性にもかかわらず、「勇気」が出たわけですね。でもそれだと、神様に出会えないと、「勇気」が出ないことになっちゃうけど、本当だろうか? 神様はご自分に出会わなければ、勇気をくれないほど、ケチなのか? 神様は、もっと気前が良いはずじゃぁないのかな? 私はそう考える訳ですね。ですから、ご自分に出会わない場合でも、「勇気」をくれるはずじゃぁないのかな。じゃぁ、どうすれば、その「勇気」が出るのか?
それはね、心配性をさらけ出しても、許される相手を、1人見つけ出すことだ、と私は考えますよ。
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