患者は、人類全体がいっそう自由に、いっそう人間らしい暮らしを実現するために、そういったヴィジョンに私どもを誘うために、身代わりに苦難を担当してくださっている、という視点は重要ではないでしょうか?
しかし、再び認めなくてはならないのは、精神分析における、この強力に物語を作り出す要素は、文芸文化との相性の良さにおいて、現代の科学的ヴィジョンをも共有しなければならない、ということです。それは、精神分析が準解剖学的用語と唯物論的用語を用いている点において、明らかでしょう。そこで、これから研究することが大事になることは、このような「悲劇的な」ヴィジョンが、現代世界での仕事を通して、自力で成功した人間が抱く政治的なヴィジョンに対して、いかに適応するのか、ということだけではなく、「十分に分析された」人間というウソのヴィジョンにしきりになろうとする、人間を機械みたいに考える、機械論的な立場を、いかに示していると思われるのか、ということです。「十分に分析された」人間なんぞがいるとすれば、自分の衝動と空想をコントロールできるでしょうし、社会的に適応し、リアルに感じることそのものに対峙することができるでしょうけれども・・・。いかにこういったことが可能なのかを、歴史的自己評価の元で(もう一度)研究し(直さ)なくてはならないでしょう。というのも、私どもは結論として強調しなくてはならないのですが、そういった研究をするために、精神分析ほど準備が整っている分野は他には、ない、のですから。
このような一つの仕事において、新しいパラダイムを創りだすもう一人の創造主を認めることが助けになるかもしれません。そのもう一人の創造主は、厳密科学においてさえ、遊びとヴィジョンの役割がいかに大事かということを、私どもに教えてくれるはずです(と分かります)。
ここはちょっと難しい科学論ですね。
精神分析には、物語を創りだして、悲劇の中に人間の本当の喜びを発見する働きがありましたね。その働きは、ここでエリクソンが間接的に述べているように、遊びとヴィジョンの働きと言ってもいいのです。しかし、現代は何と言っても、人間を機械のように考える機械論というものの考え方が有力です。機械論では、人間は、情念も衝動もない、機械と見なされ、いってみれば、「完全に分析が終わった」、逆説的ですが、神様のような人間を想定しているのです。しかし、現実には、そんな人は1人もいませんね。ですから、機械論が依って立つ人間に対する見方、すなわち、人間には、情念も衝動もなく、機械の様に働くことができる、という人間観、「機械仕掛けの人間」、神のように「完全に分析しきった」人間という見方には、ウソがあるのです。ですから、この精神分析の物語を創りだす要素が、どのように、機械論の前提する機械の様な人間に対する見方に対処できるのか、早い話が、その人間に対する見方を変更できるのか、が問われている、とエリクソンは言っているのです。ですから、次回から、アインシュタインの遊びを話題にするのです。
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