「発達トラウマ障害 Enpedia」
は、内閣府情報調査室が情報操作をしているだろうGoogle検索ではなさらず、
MSN検索、あるいは、 Bing検索にて、ご参照ください。
としましたが、1日で、MSN検索、Bing検索にも、内閣府情報調査室が施したであろう、情報操作が入りました。
それだけ、「発達トラウマ障害 Enpedia」の真実が大事。
Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』
p.41から。
見て判ると良い見通しを持つことになりますから
このような積み木療法の事例を2つ並べたことが,心から自由になる者らの提案に、馴染もないし,納得してもいない方々にとって,どのくらい説得力があるかは分かりません。心から自由になる者らの提案とは,すなわち,人は,自分が口で話したこと以上のことを表現しているものだし,それは,意識して伝えるつもりのことを遥かに凌いでいますし,そういう意図せずに伝えた意味は,とても大事な意味があることが示されている場合がありますよ,と言うことです。ある神学者は,私のことを,人の歓びを台無しにする輩,と呼びましたっけ。それは、私が,子どもの遊びに,諍いや目的を見つけ出したからでしょう。それに,私も認めていますとおり,臨床などに関わるいくつかの理論は,子どもの遊びに,大きな役割を課しております。「トラウマ」理論によれば,遊びは,かつてうまく対処できなかった経験を象徴的に繰り返して,受け身で苦しんだ体験を能動的にうまく出来た体験に変える結界に入れ込むことです。「カタルシス」理論によれば,遊びの中にいまここでの働きを見ます、すなわち,押さえつけていた気持ちをオープンにしたり,真面で役立つことに使えずに来た 有り余るエネルギーを自由に使えるようにするのが遊びだと見ます。それからまた,「機能」理論によれば,遊びは新しい機能の練習であり,将来に備えるものだと見ます。これらの理論は何れも、すべての遊びを網羅している訳ではありませんが,いずれの理論も捨てる気になれません。と申しますのも,これらの理論はすべて,人間ならどなたの思想と行動にも必ずある要素を指摘しているからです。私どもが 確かな遊びの場に,トラウマ体験との「和解」を認めるのなら,是非とも肝に刻んでおきたいことは,陽気で楽しいスピリットが働く場こそが,トラウマ体験を復活劇にしてくれる,と言うことです。このようなトラウマ体験が,気持ちを伝え合うニーズと 大切なことを告白しなくてはならないニーズによってさえ,司られていたとしても,陽気で楽しいスピリットのおかげで,自分を語ることが歓びになるんですよ。それから,もしも陽気で楽しい遊びが育つ力を伸ばすことになるのなら,そうなるのは,気付いて手放すことができるからでしょう。陽気で楽しいスピリットのギフトが著しく限られている場合,すなわち,私どもが関わる子どもの患者さんには,よくあることなんですが,その子どもは,「遊びがバラバラ」と名付けたことに苦しめられがちです。しかしながら,1つの傷もない陽気で楽しいスピリットは,遊びに分類される出来事を豊かにするだけではありません。1つの傷もない陽気で楽しいスピリットは,イキイキ,晴れ晴れ生きるためにはなくてはならないものですから,どうやっても,定義することなどできませんが,とらえどころがない定義,プラトンが遊びは「ビョンと飛び跳ねること」だとした定義のみが例外でしょう。
遊びがピョンと飛び跳ねることだと言うことについては,後程詳しく申し上げましょう。いまは,もう一度,積み木療法がスピリチュアルな創造になる ということ,すなわち,積み木療法の主たる特色にもう一度戻ることをお許しください。と申しますのも,遊びと呼ばれること,遊びに見えること,遊びみたいに感じることなど様々なことから,私どもがお示ししていることから,人間ならではの力の実例を目の当たりにしているからです。その人間ならではの力の実例は,人類の進化に基づいおり,しかも,子どもの頃に様々に空想するおもちゃの世界で育てられた人間らしさです。人間らしさとは,想像したイメージを結界の中で表現するのに欠かせない特別で象徴的な意味を帯びたおもちゃを使うことです。私どもの隣人のケースですと,こんな場面は,大人が誘導したものですから,完全に自発的とまでは言えません。結界の中ですから、私どもは,もう一歩踏み込んで(踏み込むのは後に譲りまずが),ここで起きていることは,日常生活を礼拝にする手順と呼んでいます。しかも,どなたでもご納得いただけると思いますのは,共に作った積み木の作品には,真実に陽気で楽しいスピリットが宿っている,ということです。真実に陽気で楽しいスピリットだけが,形の上でも中身の点でも,共に作った積み木の作品に,不思議な驚きをもたらします。さらに申し上げれば,私どもが遊びの場面に見て取る意味が示すのは,リスクを取る勇気の素晴らしさです。結界の中で,頭と身体が真実にお互いに支え合うことを身に付けることが出来るし,訓練した体得底から人と関わる新たなギフトを創造出来るならば,素敵なのに!!
そこで,どんなおもちゃを使う場合でも,私どもが光を当てるのは,「場面の大局的な視点」です。場面の大局的な視点は、遊びの偉大な理論家,ホイジンガがお見事な要約を述べています。すなわち,「すべての遊びは,その動きもいのちも,あらかじめ決められた,見た目からも理念の上でも,考え尽くされた,あるいは,当然そうなるはずの,遊び場の中にあります」と。ホイジンガが名付けた一連の現象は,遊び場の特性を述べています、「競技場,トランプ台,魔法陣,寺院,舞台,スクリーン,テニスコート,裁判所,等等は,全てが,形の上でも働きの上でも,歓びの結界です…この歓びの結界は,他から切り離されていて,囲いがされていて,聖別され,仲間のルールを我が身に付けるんです」。こういったこと全てを,ホイジンガは「その人ならではの世界の,いまここを生きる世界」と呼んで,その人ならではの発達成長をやり遂げるのに役立つ」と言いました。
私どもは,創造発達するのに合わせて,歓びの結界を自分で選択することになります。いまここでは,私どもがご指摘したいことを1つだけ申し上げますが,それは,遊びの舞台と,子どもの遊び場の経験には特別な関係がありますよ,ということです。『子どもの頃と仲間達』の中でお示ししたように,子どもの頃にやる「ドラマ仕立ての」遊びは,モデルのなる状況を創造することによって,過去をもう一度生き直し,現在を改めて再現して見直し,未来を見通す,真心を育てる心の習慣の子ども版だ,と言うことです。子どもの頃にやる「ドラマ仕立ての」遊びが真心を育てる心の習慣の子ども版になるという,全てを網羅するテーマについて,さらに詳しくお話ししましょうね.ただ,積み木療法の作品を目の前に置いてあることをお忘れなく。
子どもの遊びは,エリクソンのご指摘通り,一見暴力的に見える場合でさえ,真心を育てる心の習慣を創造する,健気な努力が垣間見えるものです。
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