システム、組織が巨大化し、組織化された現代において、自分の全体性を快復し、私ならではの持ち味をまとめておくことが何よりも大事だと分かりますよね。
じゃぁ、内観し、内省して、内なる≪天の声≫に忠実に従う中で、≪私≫がまとまっていくことはどういうことなのか? それが叶わないとどうなるのかを皆さんと一緒に考えたいと思います。今日は、ユングの著作集の第九巻の二部(Aion : The collected Works of C.G.Jung, Vol.9-2, pp.36-71)にあるChrist, a symbol of the Self「キリスト、本当の自分の表象として」を主なる素材とします。
私が≪私≫をまとめる時に、晴れがましい自分、カッコいい自分、立派な自分は、まとめやすいし、是非とも、まとめておきたいと感じますね。いわば「光の自分」です。厄介なのは、みじめな自分、カッコ悪い自分、渡辺和子さんの言葉で言えば「ふがいない自分」です。これは「影の自分」と呼んでもいいと思います。「影の自分」は物語に入れにくいし、あまり入れておきたいとは思わない。いつまでも「影」のままにしておきたくなるのも、人情かもしれませんよね。でも、≪私≫は光も影も含んだ〈全体性〉wholeですから、「影」をそのままにしておくと、全体性である≪私≫の物語を創り出すことにならないらしい。
ユングはその≪私≫=「本当の自分」を象徴するものがあると言うんですね。イタリックで強調していますから、ここではボールドで強調しますね。
「キリストは、『本当の自分』の元型を具体的に見せてくれています」(前掲書,p.37)とね。
キリストそのものには影はないのかもしれませんが、その影として、キリストは「悪魔」と対決しなくてはなりませんでした。聖書にそのくだりが出てきますもんね。「荒野の試み」と言われる部分で、有名です。悪魔から「石をパンにしてみろ」、「全世界をやるから、俺に従え」、「お前が本当に神の子なら、高いところから飛び降りてみろ」。これに対して、イエスは、適切な聖書の言葉で、やり返します。最初の問いに対するイエスの応えも有名ですね。「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(新約聖書「マタイによる福音書」第4章4節)と答えていますね。
昨晩も申し上げましたように、≪私≫=「本当の自分」をハッキリ意識すればするほど、無意識的な集団から離れていかざるを得ませんよね。そうすると、さまざまな軋轢が生じますでしょ。特に日本では付和雷同、同調主義が猛烈でしょ、いっそう困難な軋轢が生じやすい。
でも、同調し、付和雷同していたら、そこに本当は軋轢があることも、「本当の自分」も分からないまま、気付かぬまま、になります。そういう人に限って、忙しく振る舞ったり、いつまでも、集団の中でベタベタしたりで、自分の心を見ないんですね、1人の時間を持とうとしないんですね。ですから、ユングは言います。
「イエスは、…『気付いた人』の元型になります。なぜなら、矛盾は、イエスの中では、十字架の苦しみによって、区別できますし、ハッキリと意識できるものになりますから」と。
対立していること、影と光を両方ともに意識することが、どれだけ大事か分かります。そして、ユングは心理学の法則を教えてくれます。
「心の内側を意識しないとね、心の内側のことが、外側で起きちゃうのが運命ですよ。人は、脇目も振らずに、心にある矛盾に気付かぬままでいますとね、否応なく、葛藤が身に降りかかり、身が引き裂かれる思いをすることになりますよ」(前掲書,p.71)とね。
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