子どもの貧困。今日はその5回目。
今の日本の子どもの根源的な貧困について。
昨日のブログの最後に出てきましたでしょ。鬼ごっこで、いつまでも追いかけてもらいたい、と感じているらしい子どもたち。この遊びに現れている、子どもの無意識の願い。
子どもは何を願っているのでしょうか?
昨日も書きましたけれども、今の日本の子どもは、自分の親に、自分の担任教師に、自分の話をユッタリと聞いてもらえる時間がないんじゃないのかなぁ? 自分に向き合ってもらう時間をプレゼントされてないんじゃぁないのかなぁ? ということです。
ではなぜそれが、根源的な貧困なんでしょうか?
それは、子どもが日々、次のように言われているのと、同等だからです。
●「お前の話は、ユッタリと聴く値打ちのないものですよ」
●「お前は、そんだけ値打ちがないんですよ」
●「せいぜい、私(母親、父親、担任教員)の言うことを聞いてれば良いんで、ツベコベ言わずに、私(母親、父親、担任教員)に従ってなさい」
●「忙しい私(母親、父親、担任教員)の手をわざわざ煩わす程には、お前は値打ちがないんだから、静かにしてなさい」
これは、子どもが感じていることを、言語化すればこうですよ、大人が態度で示していることを言語化すればこうですよ、というものです。
でもね、実際にある学校の教員に、次のように言葉にした人がありましたね。
「あんまり、話を聴いちゃうと、わがままになっちゃいますから、聴かない方がいいですね。みんなに合わせたほうが良い、ってことを分からせた方がいいですね」。私はこれを聴いて唖然としましたね。でも、私は、パレーシアステス(物事を直球で、腹蔵なく言う人)なのですが、何も申し上げませんでしたね。何か私が申し上げても、すぐに受け止めるだけの力がない、と感じたからですね。時間をかけてユッタリと取り組んだ方が良い人、その人のことを感じたわけですね。
ですから、今の日本の子どもは、自分が感じていることには価値があるという感じ=根源的信頼感の方ではなくて、自分が感じていることは大したことではない感じ=根源的不信感の方に大きく傾いていることがビックリするほど多い。今の日本の子どもは、自分の感じていることに従って、生きていい感じ=自律した感じ(自律性)よりも、自分が感じていることに頼れず、その頼れないことが、自分のせいなのか、親や担任のせいなのか分からずに疑いを抱いている=恥と疑いの感じ(恥と疑い)方が、ビックリするほど多い。またその不信感や恥と疑いが、とてつもなく深い、と日々感じることがありますからね。
そんなところで、「命は大事です」。「命を大切にしましょう」と、その大人(母親、父親、担任教員)から言われても、子どもには、虚しく響くことでしょう。
日本の未来である子どもが、こういった状況なんですよ。
これ以上、根源的な貧困は、ない。
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