「何があっても大丈夫」と腹の底から感じられたら、セコムしなくても「あ~んしん」でしょ。
The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の、p.109の、ブランクから。
自分を確かにさせることが出来ずに、何となく困っている状態 vs 自分を確かにさせている状態 : 関係に対して忠実・誠実である生き方
自分を確かにさせる、ということは、生まれた瞬間に、赤ちゃんひとりびとりに、注意を払い、歓迎し、違いを認めますし、名付けることによって、赤ちゃんが自分を確かにさせることを、直ちに保証します。男の子は自分の名前を貰えるし、女の子が自分の名前を呼ばれれば、自分は女の子なんだと分かります。たくさんある名前の中に、「はい」と応える名前と、「僕(私)の名前じゃないもん」と言う名前が出てきます。私が出くわす最大の課題は、「自分らが、≪私たち(仲間)≫と考えるのは、どういう人達なのか(どの範囲の人たちなのか)?」 対 「よその人たちが、≪私たち(仲間)≫と考えるのは、どういう人達なのか(どの範囲の人たちなのか)?、あるいは、どういう人達であろうとしているのか(どの範囲の人たちを認めようとしているのか)?」 ということです。男も女も、「自分は何者?」と考えることは、厄介な、自分自身に対する問いでして、なかなかいい答えが見つからないもんですね。
「自分は何者?」と言う自分自身に対する問いは、厄介な問いであることは確かです。知的に問うても、答えは見つかりません。いいえ、見つけたとしても、その答え通りには生きられません。
「自分は何者?」という問いに対する答えは、自分達の中にあるのです。
それは、「神が支配されるところは、あなた方のただなかにある」(私訳)
「見よ、神の国はあなた方のうちにある」(前田護郎訳)(ルカによる福音書第17章21節)
ということと、合わせ鏡です。
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