ルターが作った宗教会議は、管理教育もビックリの代物でした。
Young Man Luther 『青年ルター』p.239の3行目途中から。
このような状況を、ルターは「モーセ律法」とかつて非難してました。いまは、ルターは正当化したんですね。キリストを信頼する者だって、魂があるだけじゃなくて、他の生身の人達の間に生きている生身の存在ですから、「モーセみたいになることに甘んじ」なくてはなりませんでした。祈りの人は、自分自身と話し合うばかりではなくて、支配者たちと話し合わなくてはならないのは、神のご計画のあらゆるしるしを受け止めるためです。この神様の新しい顔は、祈りの中にも、聖書にも、「国父」の決心にも、認められるものですが、新しい階級の方向性、信頼豊かな方向性になります。しかも、その方向性は、新興勢力、商人の一連の努力のなかで、進歩に必要ないろんなことと一致していました。
面白いですね、神様の御顔は、いつでも、新しいのですから。しかも、新ぽすりゃぁ、なんでもあり、というのではありません。進歩と伝統を統合する力もありますしね。
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