儀式化 ≠ 神経症(不安障害)!?
日常生活の儀式化には、「不思議な感じ a sense of wonder」を排除するのではなく、包み込む「神話の知」、物語が必要みたいですね。
最近、毎回載せている“花々“をご覧になって、「不思議な感じ a sense of wonder」を感じませんでしょうか? その形、その色、ミツバチなど他の生き物と「共にある」感じ、季節になると、だれが見ていなくとも、だれに誉められずとも、必ず咲く姿の立派さ、などなど・・・。
もっと、「不思議な感じ a sense of wonder」を実感したいと思うのであれば、実際に森に出かけましょう! あるいは、レイチェル・カーソンの本 A sense of wonderをじっくり読んでみてください。 英文の方が、本が大きくて、写真もいいと思います。上遠さんが翻訳した新潮社の『センス・オブ・ワンダー』でも構いません。
儀式と言えば、「手洗い」を果てしなく繰り返す「儀式」の病気、強迫神経症を思い出す方も少なくないでしょう、しかし、ユーロック・インディアンがする儀式は、自分たちの暮らしの中での様々な活動、サケを取る仕事、食事の仕方、などを、正しいやり方としてひとまとめにするだけではなくて、ユーロック・インディアンの人たちが、自分や民族集団を超える価値、≪超越≫を含む「共に見る」世界に対する見方にもなっています。毎日をイキイキ、ピチピチ生きていくために、なくてはならない礼拝です。
丸山眞男教授は、狂気の戦争遂行した権力を分析する中で、日本のナショナリズムが、ウルトラなのは、国家が「真善美の極地」という価値の内実を独占したことにある、と指摘しています。早い話が、国家=神なんですね。普通、「近代国家」といえば、そう言う価値の内実には中立を守り、個人や宗教にゆだねるのに、日本の国家だけは、価値の内実を独占したところに、ウルトラを見ているわけです。「真善美」という価値の内実を独占した国家は、何をやってもそれは「真善美」ということになる、というところが、まさにウルトラなわけですね。こうなると、「いかなる暴虐なる振舞も、いかなる背徳的行動も許容されるのである!」(『丸山眞男集』第3巻、p25)ということになってしまいます。南京大虐殺をやっても、朝鮮や中国やオランダの人々を強制労働に動員することも、「真善美」になっちゃうんです。日本の国家は、このように、めちゃくちゃだから、ウルトラなんですね。
今の日本はそこまでひどくないんじゃないのかな? と楽観主義の人もいることでしょう。しかし、会社や役所や学校などの集団が、ウソとゴマカシに溢れだヤバいことだらけなのは、なぜでしょうか? そういう集団を超越する価値を、私どもは日々実感しながら、その組織の中で暮らしているでしょうか? それは端的に示すのは、自分の所属集団が、今申し上げた、ウソとゴマカシだらけのことをやった場合、「NO! ノー!」と果たしてどれだけの人が言えるか? 「ここ」でしょうね。
自分が損することをしないのが、イマドキの日本人の行動バターンですから、「NO」とは言わないことが圧倒的多数でしょうね。ですから、これだけ日本には、ウソとゴマカシだらけの商品、サービス、お役所仕事が溢れているんですね。
やっぱり、宮田光雄先生の『われ反抗す、ゆえにわれら在り――カミュ『ペスト』を読む (岩波ブックレット) [単行本(ソフトカバー)] 』を も一回読まなきゃぁ。
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