早熟の道徳性、早熟の良心は、禁物です。「正しい」ことよりも、「ホッとできる温もり」が何よりも大事だからですね。
p224第3パラグラフ。
実際に、私はここでご紹介しなくちゃならないのは、私の最初の「発達上の」前提の訂正です。その前提とは、子どもの頃に人の「道徳的な」傾向が発達することと、大人になってからの「倫理的な」力の発達の間に、「価値」に関する言葉で言えば共通善を受け入れる際、青年期のころに介入がある、という前提です。もちろん、発達の舞台のイメージが役立つのは、前にくる言葉が後ろのくる言葉にとって必要な場合と、後にくる言葉が次第に高い秩序になる場合の2通りで、1つの言葉が別の言葉の前に来ることが示された場合だけです。
エリクソンの用語法で言えば、子どもの頃の道徳性と、大人になってからの倫理性とは何の関わりもありません。むしろ、反比例の関係でしょう。それは、こういうことです。
大人の倫理的態度が高ければ高いほど、子どもは、道徳的である必要がありません。ですから、「ねばならない」と思って子どもが道徳的なことをする必要がない。大人に高い倫理的態度があるとね、「言ってること」と「やってること」が一致しますでしょ。言葉を「ウソとゴマカシ」のために使わない。どっかの安倍晋三首相のように「ウソとゴマカシ」だらけにはなれませんね。そうすると、子どもは大人から真実な態度を示され続ける訳ですね。言葉がなくっても、その子どもは自分の存在価値を認めてもらった、と実感してくれます。するとね、不思議なことですが、子どもは必ず「良いこと」しかしませんね。それが人間が持って生まれた美徳の一つだと、私は確信しています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます